慶長出羽合戦 と 斎藤広盛
●慶長5年(1600)、日本を2分する関ヶ原の合戦が行われた。これと同時に、東北では、長谷堂合戦とも、慶長出羽合戦とも言われる、戦いがおこなわれた。
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関ケ原合戦は各地に飛び火し、日本全国を二分する動乱となった。なかでも、出羽、加賀、丹後、豊後の合戦が、激しいものとして伝えられている。東軍(徳川家康方)・西軍(豊臣秀頼・石田三成方)の称は後世のものだが、解説の便宜上、この称を用いて概説する。また、以下の日付はすべて慶長五年(一六〇〇)である。
まず、出羽の戦い(もがみのじん最上陣)について。六月十一日、徳川家康は会津の上杉景勝を討つために伏見を出発し、七月二十四日、小山に着陣した。そこで、石田三成謀反の報が入り、「小山軍議(ひようじょう評定)」によって上方へ引き返した。これによって、会津の上杉は東北の地盤固めの必要を感じ、家臣直江兼続を出羽国山形城の最上義光討伐のために派遣した(三成と内応したとする説、最上義光が豊臣秀吉を恨んでいて東軍についたとする説など諸説あり)。九月九日、上杉方は米沢松ケ崎城主直江兼続を総大将として最上領に出陣し、畑谷(旗屋・幡谷)城・長谷堂城・上山城・谷地(屋地)城・寒河江城・白石(白岩)城・五百川城・八ツ沼城で合戦が繰り広げられ、最上方に伊達政宗の援軍が駆けつけ、激烈な戦闘となった。同二十五日から始まった二度目の長谷堂城の攻防戦のさなか、関ケ原での石田三成(西軍)敗戦の報が入り、直江は退路を確保するために長谷堂城に猛攻をしかけ城方の戦力をそいでから退却、十月一日、会津に帰還した。
『戦国軍記事典 天下統一篇』(古典遺産の会編、2011年12月20日、和泉書院発行)
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●出羽合戦は、上杉景勝と最上義光との戦いであった。上杉軍の総大将・直江兼続は、米沢にいたが、主力2万の軍勢を率いて、荒砥から狐越街道を進んで畑谷城を経て、長谷堂城へ進んだ。これと呼応して、庄内上杉軍も庄内を出発している。
●酒田城の志田義秀と、尾浦城の下吉忠の2軍である。実は、酒田城の志田の配下に、如儡子の父、斎藤広盛がいたのである。斎藤広盛は、当時33歳位だと思われるが、志田の命に従って、家来300名を引きつれ、最上川を遡って、最上方の古口砦・庭月砦を攻撃して打ち破ったと『世臣伝』は記録している。
●私は、今、この慶長出羽合戦の只中で奮戦する、斎藤広盛の歴史的事実の究明をしている。広盛は、この時、上杉軍の中で活躍していた。その後、和議によって最上軍に転じ、最上義光・家親父子に仕えた。如儡子・清三郎も最上家親に仕え、主君から「家」の一字を賜り、親盛となったのである。
■慶長出羽合戦概略図