下高井戸の吉田園

●妻の母の関係資料を整理していたら、下高井戸の吉田園の写真が出てきた。義母は沢村氏と結婚したが、本性は吉田である。念のため、吉田園をネットで検索してみたら、吉田本家は、大変広大な土地を所有していたことがわかった。菩提寺は、下高井戸の宗源寺である。2年ほど前にお参りしたが、吉田一族の墓所の広大さに驚いた。その様子を次の如く記している。
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●今日は、妻の母のお墓参りに行った。新宿から京王線桜上水へ行き、甲州街道沿いの、日蓮宗・叡昌山宗源寺。この宗源寺は、甲斐の国吉田郷に住した、吉田宗利が法華宗に帰依して法名を「宗源」と称した。その末孫・日善が、この地に一寺を開いて寺の名にしたと伝えられる。それは慶長(1596〜1614)の頃だったという。

●山門を入って、すぐ左に吉田一族の広大な墓域がある。妻の母は、吉田家の出であり、この一郭にお墓はあった。葬儀の時ももちろん行っているが、これほど広い墓域とは思わなかった。おそらく、一族、数十家のお墓があるのだろう。吉田本家と思しき墓石には、寛文、元禄の年号があった。杉並区教育委員会の説明標識には、この宗源寺の檀家で、有名な地理学者・志賀重繡の記した『宗源寺開基碑』があるとのことである。いずれ、調べてみたいと思う。それにしても、妻の母は、結婚して沢村姓を名乗ったが、大変な一族の出であったのだ、と今日、痛感した。
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●下高井戸の吉田園のことは、「すぎなみ学倶楽部」というサイトに「謎の吉田園 杉並のスケート場」と題して、御子孫の吉田哲夫氏の談話も紹介して、詳細に調査されている。それにしても、推測すれば、武田信玄一族が滅亡したのを機に、甲斐の富士吉田から武蔵の国に移住した吉田一族ではないか。その吉田一族は、以後、下高井戸を舞台に活躍してきたのだと、そのように思う。