天保改革の史料として

●今日、久々にネットで検索したら、国会図書館のリサーチ・ナビで、『井関隆子日記』が出ていた。国会図書館のリサーチ・ナビは、
。。。。。。。。。。。。。。。。。
当ウェブサイトは、当館職員が調べものに有用であると判断した図書館資料、ウェブサイト、各種データベース、関係機関情報(以下、「情報源」といいます。)を、特定のテーマ、資料群別に紹介するものです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。
歴史学研究会編、高埜利彦責任編集、2006年12月8日、岩波書店発行
『日本史史料 3 近世』の目次を紹介している。その中の、第4章、第3節天保改革 は、次の如くである。
。。。。。。。。。。。。。。。。
目次
はしがき凡例序章近世史史料について1第一章統一政権の成立過程11
第一節織田政権13
1土地・家臣団支配13
(1)給地充行13
1〔吉田文書〕元亀二年(一五七一)十二月日織田信長朱印領地方目録13
2〔東寺文書(五常之部)〕(天正元年(一五七三))八月二日長岡藤孝書状14
(2)城破・国替14
3〔多聞院日記〕天正八年(一五八〇)八月四・八・十七—二十日14
4〔細川家文書〕(天正八年(一五八〇))八月二十一日織田信長黒印状15
(3)家数改め・指出検地16

【中略】

第四章幕藩体制の動揺と近代への胎動363

第一節地域社会の形成365

第二節鎖国観念の成立と対外問題388

第三節天保の改革394

1内憂外患の時代394

2天保の改革398
336〔新見家文書〕天保十二年(一八四一)九月水野忠邦伺書398
337〔見聞偶筆〕天保十二年(一八四一)399
338〔市中取締類集〕芝居所替之部天保十二年(一八四一)十二月十八日狂言勘三郎等請書400
339〔大日本近世史料市中取締類集〕天保十三年(一八四二)六月触書401
340〔首都大学東京付属図書館所蔵水野家文書〕天保十四年(一八四三)水野忠邦日記六月一日・八月十三日402
341〔井関隆子日記〕天保十四年(一八四三)六月十七日・二十六日404
342〔内洋経緯記〕天保四年(一八三三)十月404
343〔長崎歴史文化博物館所蔵文書〕天保十四年(一八四三)四月御用方諸書留405
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
●『井関隆子日記』天保14年6月17日の条には、次の如く記されている。

「・・・本より知る所もたる人に貸おかせ給ふ御代官金てふ物、此たび中らきえんといふ事、仰せ出されぬと聞くに、さる方の人々よろこびぬらむと思ふに、はた武蔵はいふべくもあらず、隣に付たる国々、大城より四方へかけ拾里四方御領になし給ふ御定め出ぬ。されば御旗本の人々の知る所、田畑の実りよろしきわたりみな召して、かはりの地は後に給はるべしと仰せ下りたるにぞ、かの人々おもほえず、浅ましうあきれつつ、打わぶる人数しらず。御前仕うまつる人々にも多かりとか。是のみならず、京大坂も大城に近きわたり、皆此定に御領になれぬれば、城主と聞ゆる人の地も多かるを、城近き地は残さるべしなど聞ゆ。御旗本の人々にはかに、かはりの地出くるまでは御蔵より、たうばり給はるべかめりなど沙汰す。かかる人々、利をのみ思ふにあらず。親の其かみ、身をなまになし戦ひにいさを有し時給りつる処々ありて、其親の墓などあるは、ことに歎きわびあへる人多しとぞ。・・・」

●これは、上知令が出された時の状況である。この幕府の令は、結局撤回されることになるが、その時代のただ中にいた、一人の女性が、このように記しているのである。隆子は、このように現実の出来事を記録しておけば、100年後、500年後には、きっと役立つだろう、そう考えて、この日記を記した。今、後世の研究者に、価値が認められて、活用され始めたのである。
■『日本史史料 3 近世』