江戸の和菓子

●『月刊 すみよし』の、平成24年6月号に、照沼好文氏が「和菓の日」を執筆されていた。照沼氏は、昭和3年茨城県生まれ。元水府明徳会彰考館副館長。著書『人間吉田茂』等多数。昭和61年「吉田茂賞」受賞。平成25年に御他界されたという。
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『和菓の日』  照沼好文
私達が子どもの頃から、何気なく見たり、味わってきたものの中に、素晴らしい日本の伝統文化として、今日まで受継いできたもののあることに気づいた。それは「和菓子」の文化である。

平安時代仁明天皇嘉祥元(八四八)年六月十六日の祭儀以来、宮中から民間まで「和菓子の日」の行事が行われ、いまも六月十六日を「和菓子の日」として受継いでいる。季語にも、「嘉祥(かしょう)菓子」、「嘉祥喰い」(かしょうぐい)「嘉定喰い」(かじょうくい)などの言葉のあったことを知った。

江戸時代の俳人、一茶の句に、

子のぶんを母いただくや嘉定喰(かじょうく)ひ

一茶の句らしく「嘉定喰い」のユーモラスな一面も窺える。

抑々「嘉祥菓子」の由来は、仁明天皇の承和年代に諸国に旱魃(かんばつ)、疫病が流行して人びとは苦しんだ。そのため、仁明天皇は承和の年号を嘉祥と改元して、その六月十六日に「十六種類」の菓子を神前に供えて、人びとの「疫(やく)を祓い、健康と幸福」を祈願されたことに始まったという。(『続日本後紀』)

また、この行事について、江戸時代の記録などを見れば、

上(将軍家)には嘉定の御祝ひとて、さまざまのつくり果物(くだもの=和菓子)下し給ふ。…世の人嘉定食(かじょうくい)とて、此月立(つきたち)しはじめの日より、今日までの日数(六月十六日)にあてて、小さき銭(ぜに)を数へ、己が心々の物にかへて食(く)うわざせり。…(深沢秋男校註『井関隆子日記』上巻、天保十一年六月十六日の条。勉誠社刊、二一九頁―二二〇頁。)

とあり、江戸時代においても、広く一般庶民の間でも六月十六日には「嘉祥喰い」の行事が行われた。

因みに、前の「井関隆子日記」に見える当時の「つくり果物」即ち「和菓子」には、どんなものがあったのだろうか。同『日記』には、

昔果物といへるはまことの木の実のたぐひにて、今はもてなしにまことの果物もすなれど(使用したけれども)、大方は作り菓子にて、それはた(それもまた)世々を経(へ)にこしままに、其品あまたになりにけり。古き文に見えたる餅(もちひ)のたぐひ、かれ是あれど、結果?餅(かたなわまがりもち=緒を結んだような形にして、油であげた古代の菓子)などのたぐひは今は聞えず。耳なれたるは椿餅(つばきもち)などにやあらむ。…新たに出来たる名どもの中に雅(みやび)たるは、しぐれ、うす桜、みめより、小倉野、などやうの名共かずもなし。桜餅は其葉につつめる匂(にお)ひなつかしく、花の散なむ後のかたみにもなりぬめり。…今は外にも物すめり。(前掲同。天保十一年二月二十六日条、七二頁)

と。これらの和菓子の名から、情趣の豊かさが感じられ、ほんのりと爽やかな雅味さえ伝わってくる。これは日本の四季おりおりの美しい自然と、豊かな暮しの中で育くまれた雅味であると同時に、宮廷の祭儀をはじめ諸国の神々への供物として和菓子の清々しい神韻の味にほかならない。人口にはあまり膾炙(かいしゃ)されてなかった六月十六日の「嘉祥喰い」、所謂「和菓子の日」を後世に伝え、その洗練された伝統文化の風韻を末長く味わってゆきたいものだ。
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●井関隆子の和菓子についての紹介は、以前、「とらや」のHPでも紹介されていた。隆子は花火や酒や和菓子や料理のことなども、ただ、おざなりに記してはいない。しっかりとした知識で書いている。故に、今も参考になるのである。

■『月刊 すみよし』平成24年6月号

■「とらや」のHP 平成20年6月

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