鈴木重嶺と勝海舟

●先日の八木健吉氏のサイトで「新島 襄と勝 海舟」を読んで、勝海舟と関係深かった鈴木重嶺を思い出した。鈴木重嶺は、現在、余り知られていないが、いずれ、幕末維新の政治・文化の面で知られるようになるだろう。私は、国語学者・松本誠先生の関係で、鈴木重嶺を研究することになった。
佐渡の金井町図書館・岩木文庫に『鈴木重嶺翁小伝』が所蔵されている。岩木擴の書写である。鈴木重嶺からの聞き書きである。その中で、重嶺は自分の出自について次のように話している。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
・・・私の家は小禄でございますが、三河以来御扶持を戴いた古い家柄で、兎も角も三河武士に相違ありません。全体私の家はあき屋敷伊賀と申しまして、同じ伊賀の中でも、少々変って居ますので、明屋敷伊賀と申しますと些少ながら、六ケ村の知行を戴いて之を同僚で配分するのでございます。凡そ人数は百人余もありましたらうか、ハッキリとハ覚て居りませんが、此内から出世致して、諸太夫以上になりましたのは、唯三人ほかござりません。一人は勝安房守で、一人は都筑駿河守、一人は私でございます。・・・
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
勝海舟は、鈴木重嶺と同じ、明屋敷伊賀の出身だったという。そんな関係か、重嶺が最後の佐渡奉行を辞し、幕末維新を生きていた間、勝海舟との交流は親密であった。『海舟日記』は、文久2年(1861)から明治31年(1898)まで記されているが、この日記の中に、海舟は重嶺のことを148回も記している。
●維新後、鈴木翠園は歌人として活躍したが、晩年、房総の事業に名を貸して、それが原因で私財を投げ出し、零落する。その重嶺を海舟は援助している。10歳ほどの先輩である重嶺の立場を考えて支援する勝海舟の人間としての配慮、大きさを、私は、1行の記録から読み取った。
鈴木重嶺は、明治31年(1898)11月13日、85歳で他界した。その葬儀記録には、1068名の会葬者の名前が記されている。歌人としては、佐佐木信綱・中島歌子・樋口一葉などとも交流があった。
鈴木重嶺の詳細 → http://www.ksskbg.com/suzuki/index.html
鈴木重嶺葬儀記録 昭和女子大学図書館・翠園文庫
 トップには、正二位勲一等公爵 毛利元徳があり、左はじに、正三位勲一等伯爵 勝安房 とある。