鈴木重嶺と勝海舟

●私は、国語学者、松本誠先生の急逝に伴って、最後の佐渡奉行鈴木重嶺と深く関わることとなった。松本先生は、鈴木重嶺の直系の御子孫であった。その故に、重嶺関係の資料が松本家に保存されていたのである。先生は、その資料に基づいて、重嶺の伝記をまとめようとされていた。そのような折の御他界なのである。
●松本先生には、国語学や国文法の件で多くのお教えを頂いていた。そのような関係もあって、奥様から、重嶺関係の資料が昭和女子大学に寄贈された。大学の紀要『学苑』への資料紹介は、私がすることになった。そんな関係もあって、鈴木重嶺の伝記は、私がまとめなければならないかとは、薄々は思っていた。しかし、伝記研究は簡単には手はつけられない。
佐渡市の依頼で、鈴木重嶺に関して講演をしたことがある。会場は、再建されて間もない、佐渡奉行所の大広間であった。こちらにどうぞ、案内された講演者の席は、何と佐渡奉行の座る所だった。お話を聞かれる方々は、一段下の広間である。
恐縮、恐縮。私は、少しずらせた席で講演をした。
佐渡からの帰途、電車の中で、『新潟新聞』を読んだ。重嶺の葬儀の様子が描写されていた。
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明治3年、千葉県の山野を開墾する計画が重嶺のもとに持ち込まれた。重嶺もこれに賛同して、株金を募集して政府に出願した。しかし、許可が出ず、計画は頓挫、発起人は腹かき切って一同に謝罪した。9年、佐渡相川から東京に戻った重嶺は出資者の貧窮の状態をみて、惻隠の情に堪えず、一家の私財を悉く売却し、数千円を捻出して、これを株主に分配した。重嶺の家が裕福でなくなったのはこの故である、と伝えている。『海舟日記』の「重嶺零落」は、この一件と関係するものであろう。この時以後、重嶺と海舟は頻繁に合うが、海舟は象山の書の代金として10円、掛物の代金として25円など、しばしば金を重嶺に渡している。年長の重嶺のプライドを傷つけることなく、その窮状を助けている海舟が想像される。
 鈴木重嶺は明治31年11月26日、85歳の生涯を閉じるが、葬儀には、毛利元徳近衛忠熈、正親町実徳、久我建通、蜂須賀義韶、前田利嗣、勝安房等々、1068名が会葬名簿に記載されている。また、貧人10数人が柩前に集まり、生前の施しに感謝し、その死を悼み泣きくずれたという。
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●私は、この記事を読み、この重嶺の生き方に惹かれて伝記研究をしようと決意した。
★詳細は → http://www.ksskbg.com/suzuki/kaishu.html
鈴木重嶺