十五里ケ原の合戦と如儡子

●私は、今、34度の書斎でパソコンに向かって、400年前に、上杉・最上両氏が山形酒田・鶴岡の地で繰り広げた大きな合戦の具体的な展開について執筆中である。この合戦には、如儡子の父、斎藤筑後守広盛も参加していた。如儡子の父が闘った合戦であるから、これは無関心ではいられない。それにしても、このところ猛暑が続いている。

●そんな折、山形の斎藤豪盛氏から電話があった。斎藤氏は、奥さんと、15日に酒田の十五里ケ原古戦場の史跡に行ってお参りしたという。そして、羽黒神社の祖霊殿に、

 東禅寺右馬頭    妻之霊位
 東禅寺前森筑前守  妻之霊位
 荘内武士団勇士    之霊位

の三体の塔婆を捧げて供養をされたとのことである。

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十五里ヶ原(じゅうごりがはら)の合戦
天正16年(1588)8月、越後国の本荘繁長が出羽国庄内に向けて侵攻を開始した。
この頃の庄内の領主は、最上義光に属す東禅寺義長であった。義長は本荘勢の侵攻を知ると尾浦城と大宝寺城を両翼とし、その間を流れる千安川付近の十五里ヶ原に布陣して迎撃態勢を構えたのである。この東禅寺勢の兵力は不祥であるが、城兵を合わせても2千ほどであったと見られている。
この十五里ヶ原には千安川、湯尻川、八沢川という三流があり、天然の要害をなしていた。東禅寺勢はこの川筋を防衛線として牽制しつつ援軍を待ったが、本荘繁長は別働隊を編成し、その別働隊を夜陰に紛れて上流から渡河させておき、夜明けを待って一斉攻撃に出たのである。
突然に背後から奇襲を受けた東禅寺勢は混乱に陥り、こうなると頼みとしていた川が逆に障壁となり、数に勝る本荘勢にさんざんに打ち破られた。
この戦いで東禅寺義長は戦死し、また、義長の弟・勝正は本荘勢の将士を装って繁長本陣に潜入して繁長を討ち取ろうとしたが、繁長の近習らに阻まれて失敗、壮絶な斬り死にを遂げたという。
この合戦の勝利によって尾浦城・大宝寺城を含む庄内一円は本荘繁長、ひいては上杉氏の支配するところとなった。
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●合戦は、このような展開であったらしいが、この1件の歴史的事実、その真相にたどり着くのは至難のことである。その上、室温34度の猛暑に耐えている。もちろんクーラーは稼動中ではあるが・・・。
■越後勢、庄内勢の関係図

■現在の 十五里ケ原 あと
この庄内平野の米倉の争奪戦が行われた。

東禅寺右馬頭 の墓