東禅寺正宗の名刀

庄内藩の池田家の名刀の、盗難・転売・展示のニュースに接した。この名刀、転売の時、1億円で、致道博物館では買い戻せなかったという。私の探索している、名刀、東禅寺正宗は、もし、現在、オークションに出たならば、20億、30億の高値が付くだろう。『可笑記』巻5の20段に、東北の関ヶ原合戦、十五里ケ原の合戦の様子を、次の如く記している。
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「・・・汝が母かたのおぢ東禅寺右馬頭、・・・一とせ出羽国庄内千安合戦の時、上杉景勝公の軍大将、本庄重長とはせあはせ、勝負を決する刻、敵、大勢なるやへに、四十三歳にして討死せられぬ。その時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切り落とされ、わたがみへ打ちこまれ、あやうき命いきられぬ、とうけ給はりしなり。切れたるも道理かな、相州正宗がきたいたる二尺七寸大はば物、ぬけば玉ちるばかりなる刀也。此の刀、重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴太閤公へまいり、其の後、当御家へまいり、只今は二尺三寸とやらんにすり上られ、紀州大納言に御座あるよしを受け給はり及び申し候。・・・」
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仮名草子作者・斎藤親盛(如儡子)の母方のおじ(兄か弟)に、東禅寺右馬頭・勝正がいた。酒田の東禅寺城主・筑前守の弟といわれている。天正16年(1588)に、越後の上杉軍・本庄重長が庄内に攻め込んだ時、十五里ケ原で戦いで、最上軍の東禅寺兄弟は敗れる。

●この時、兄の筑前守は討死したが、弟の右馬頭は、味方の侍の頭を左手にぶら下げて、越後方の武将に成りすまして、本庄重長の本陣に駆け込み、最上方の武将東禅寺右馬頭を討ち取ったり、確認してくれと声高に叫んだ。物凄い形相に、越後方の侍も道を空けて重長の前へ通した。東禅寺は重長の前に達すると、ぶら下げた頭を放り出し、大刀を抜くや、重長に斬り付けた。事の次第に周囲の侍も気付いて応戦し、やがて、右馬頭は討取られてしまう。

●この時に東禅寺右馬頭が持っていた太刀が正宗の鍛えた名刀であった。太刀を奪い取った本庄重長は、主君・上杉景勝にこれを献上した。その後、豊臣秀次に渡り、秀吉に移ったが、ここで、本阿弥光悦が相州正宗であると鑑定し、以後、名品として伝わることになる。島津義弘徳川家康→頼宣→家綱→綱吉→吉宗→家重→家治→家斉→家慶→家定→家茂→家喜→家達・・・。昭和14年に国宝に指定たが、第二次世界大戦終結の時、進駐軍によってアメリカへ持ち去られ、現在は所在未詳とのこと。

●私の調査で、ここまでわかっている。第二次世界大戦終結の時、アメリカは、何故、この東禅寺正宗を自国に持ち帰ったのか。刀は武士の魂、徳川家に伝来する名刀、これを日本の精神的戦利品、そのように解釈したのではないか、私は、そのようにも推測できると思う。この名刀は、アメリカの中心的な博物館に保存されているのではないか、そんな推測も可能である。