如儡子の『堪忍記』再考

●このところ、毎日毎日、机に向かって取り組んでいた、如儡子の著作とされている『堪忍記』の稿が、ようやくまとまり、今、編集部へ発送した。年をとると、あれもある、これもある、でついつい長くなってしまう。もう少し、若い頃は、その蓄積が、文章に深みを添えている、そんな風に感じたけれど、これだけ老化すると、かえって、切れが悪くなり、ゴタゴタしてしまう。
●この主題については、平成元年に考えたことがある。つまり、26年前である。その後、歴史学の方面からも研究が進み、それらを参照して、改めて考え直す必要が生じた訳である。
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 堪忍記(かんにんき)
諸大名の藩主・石高・内情等を記し、批評したもの。写本、1冊。
【注】この『堪忍記』は、浅井了意の版本『堪忍記』とは別の、斎藤親盛(如儡子)の写本『堪忍記』である。

著者・編者 
この著書には、著者名・編者名は記されていない。棚倉藩士・上坂平次郎(三休子)の『梅花軒随筆』に「……儒者斎藤意伝浪人して後、可笑記、百八丁記……、堪忍記抔を作りけるゆへ、かへつて用ひられざりしとなり。」とあり、本書の序・記述内容・批評態度・文体等を考慮すると、藩主名・石高などの基本的な資料を入手した著者が、批評などを付加したものと推測される。如儡子・斎藤親盛は、浪人中に、短期間ではあるが、さる西国大名の祐筆を勤めたことがあるという。そんな関係もあって、このような諸大名を鳥瞰する如き基礎資料に接する事もあり、これを利用して、本書を作ったのではないか。その意味では、如儡子は編著者くらいが妥当のように思う。

成立 
松平文庫本(松平宗紀氏蔵、福井県立図書館保管)の内題の下に「私ニ云正保ノ比出来歟」とある。収録主要藩主の着任・離任の年を検討した結果、正保元年前後の4年間の歴史的事実を基にして作られたと推定される。松平文庫本(A)は、正保2年(1645)、内閣文庫本(B)は、正保4年(1647)の成立と思われる。

内容 
松平文庫本(A)は、110の藩について、知行高・藩主・藩名・知行・物也・家臣の勤務条件・藩主に対する評価などが記され、内閣本(B)には、106の藩について、さらに、序・室・子息・家紋・旗印・江戸屋敷・家老の名等が記されている。

特色 
江戸時代、諸大名の国名・知行高・物成・江戸屋敷などを記し、その主君の人となり、家臣の使い方などを批評したものに、『武家諫忍記』『武家勧懲記』『土芥寇讎記』などの類書がある。如儡子の『堪忍記』は、それらの中では、最も早い時期のものであり、また、諸大名に対する批評も厳しいものがある。『可笑記』の作者にふさわしい、批判精神旺盛な著者の特色が出ている。
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●これは、「はてな」に私が書き込んだもの。この著作の成立した時期は、正保元年頃と推測されるが、実は、この時期は、社会状況も文化史的な面でも注目すべき特徴がある。寛永末年から寛文初年に掛けての、この時期は、正保・慶安・承応・明暦・万治と、パタパタと年号が変わる。しかし、実質年数は、16年3ヶ月に過ぎない。つまり、日本全体が揺れ動いていた時期だったのである。私は、この時期を批評の時代と認識している。この時期の著作物、出版物には、前代とも後代とも異なる特徴がみられる。
●それを要約すると、
1、 古典の注釈が盛んになされ、評釈的色彩を強くしてきた。2、俳諧論争が発生し、その批評書が次々と刊行された。3、役者評判記や能評が発生し、遊女評判記の中には、批評書的作品が現れてきた。4、軍記物や軍学書の批評が盛んに行われた。5、仮名草子の中にも批評書的作品が現れてきた。
●このような、時代の機運の中で、如儡子は、諸大名批評の書『堪忍記』を書いたのであろう。
■松平文庫本『堪忍記』