仮名草子作品の版本の和紙

●増田勝彦先生の和紙についての論説を拝読して、私は、仮名草子の版本調査を始めた頃を思い出した。版本調査は、学生の3年・4年頃から開始した。調査方法も、先人の調査をお手本にした。しかし、誠に様々であった。私は独自の調査方法を作った。調査項目は、31項目、もちろん本文用紙の項目もある。麻紙、穀紙、斐紙(雁皮紙)、檀紙(陸奥紙)、等々、様々な和紙があったが、江戸時代の版本に使用される紙は、余り多くは無い。見本を持参して調査した。しかし、調査結果の発表の時には、この本文紙の項目を削除した。20年、30年という長期間にわたる調査もあって、この間に私の和紙の知識も充実し、変化がある。そんな理由からである。

●思い出せば、こんなことがあった。私は、法政であるが、法政の図書館は、社会科学は、充実していたが、文学、殊に、江戸の版本など、皆無に近かった。私は、大学2年3年のころから、早稲田大学の図書館に入り浸りして、お世話になった。貴重書室の中沢さんなとには、早稲田の学生のように御指導を賜った。

●ある時、貴重書室の、シバタさんに、こんな質問をされた。刷の先後は、どこで判断するの? 版面の状態、欠損とか摩滅とかで考えますが、最後は紙だと思います。私は、そんな、大それた事をお答えした。私は、同じような紙の場合、漉きの時の簾の糸の間隔も計っていた。そのデータが決め手になった事もある。そこでこんなお答えをしたのである。

●後年、長澤規矩也先生に御指導頂いた時、この点では、今、何方が詳しいのでしょう、と質問したところ、長澤先生は、早稲田の柴田君が一番詳しいでしょう、とのお答えだった。かつての出来事を内心で思い出し、冷や汗が出る思いだった。

●和紙の世界は、誠に魅力的である。私は、昭和女子大学の出版文化史の授業では、和紙の事を詳しく講義した。しかし、増田先生など、専門の方々は、繊維の科学的な分析で、データを出している。

仮名草子 『徒然草嫌評判』

徒然草嫌評判』

●今、『仮名草子集成』に収録する『徒然草嫌評判』のサブ校正をしている。書名の如く、『徒然草』を批判したものであるが、実に面白い。古典文庫の解説で、吉田幸一先生は、成立時期に関して、次のように記しておられる。
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「・・・『嫌評判』は、本文による限り寛永十三年中に一応成立しており、たとえ降つたとしても明暦(一六五六)頃か。そして、寛文十二(一六七二)に出版されるに至つたものと思う。」
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●私は、最近、こんなことを書いた。

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 寛永末年から寛文初年にかけて ――批評の時代――

寛永末年から正保・慶安・承応・明暦・万治・寛文初年にかけての時代状況に関しては、かつて考察したことがある。前に20年10箇月の寛永を、後に12年4箇月の寛文をもつこの時期は、通算して16年3箇月に過ぎないが、この間に正保・慶安・承応・明暦・万治と五度も改元されている。この時代が不安定で流動的な時期であったことが知られる。

寛永19年 寛永の飢饉は頂点に達する。
正保2年 江戸吉原全焼する。
慶安4年 三代将軍家光没。慶安の変。浪人抱え置きを禁ずる。
承応元年 承応の変。若衆歌舞伎を禁ずる。
承応2年 佐倉騒動。
承応3年 後光明天皇没。
明暦元年 かぶき者を追捕する。
明暦2年 江戸大火、48町焼失。
明暦3年 江戸、明暦の大火。死者10万人。林羅山没。
万治元年 江戸大火。
万治3年 江戸大火、2350戸焼失。佐倉藩主堀田正信、時政批判書を幕府に出し、改易となる。
寛文元年 京都大火。

大名の改易・転封による牢人の激増、参勤交代・築城などによる諸藩財政の逼迫、農政の転換等々の問題を前代から引き継いだこの時期は、それだけでも既に多難であった。その上に、寛永の大飢饉、幼少の家綱を残しての実力者家光の死、相続く大火などが加わったのである。社会が揺れ動く条件は揃っていたのである。

この時期、その思想の中心的立場にあった儒学界にどのような変革があったのか。日本近世初期の儒学は、藤原惺窩等によって究められた朱子学が中心であった。そして、惺窩に学んだ林羅山が慶長12年に将軍家の侍講となって以来、朱子学徳川幕府の官学としてその隆盛を極めたのである。しかし、この林羅山が75歳で没した明暦3年は、この儒学界に新しい動きが芽生えはじめた時期でもあったのである。中江藤樹・熊沢蕃山の陽明学や、山鹿素行伊藤仁斎の古学などがそれである。

寛永19年 熊沢蕃山、中江藤樹に師事する。
正保元年 37歳で『陽明全書』を読み、朱子学より陽明学へ転向する。
正保2年 熊沢蕃山、池田光政に再び仕える。
慶安元年 中江藤樹、41歳で没する。
慶安三年 中江藤樹の『翁問答』刊行。
承応元年 山鹿素行、浅野長直に仕える。
明暦2年 山鹿素行の『武教要録』『修教要録』『治教要録』成る。
明暦3年 林羅山、75歳で没する。
寛文2年 伊藤仁斎、古義堂を開く。
寛文5年 山鹿素行の『武教小学』『聖教要録』『山鹿語録』成る。
寛文6年 山鹿素行、『聖教要録』の事により赤穂へ預けられる。

このような思想の対立・論争は、儒学界のみでなく、仏教各派においてもなされており、さらに、儒仏の論争も活発に行われていたのがこの時代であった。
このような社会状況の中で生れた著作物を概観して気付く事は、慶長・元和・寛永期にそれほど見られなかった批評書の類が目に付く事であり、次第にその数を増している事である。

1、 古典注評釈の隆盛
2、 俳諧論争書の続出
3、 遊女評判記・役者評判記の発生
4、 軍記物および軍学書評判の出版
5、 仮名草子・批評書類の刊行

1、 古典の注釈が盛んになされ、評釈的色彩を強くしてきた。 2、俳諧論争が発生し、その批評書が次々と刊行された。 3、役者評判記や能評が発生し、遊女評判記の中には、批評書的作品が現れてきた。 4、軍記物や軍学書の批評が盛んに行われた。 5、仮名草子の中にも批評書的作品が現れてきた。

寛永末年から寛文初年までのおよそ20年間、この時期には、このような批評書の類が多く著作され、刊行された。このような現象の原因を、今即断する事は出来ないが、前述の如く、この時代は天災に人災にと大いに揺れ動いていた。そして、慶安4年の徳川家光、承応2年の松永貞徳、明暦3年の林羅山と、この相続く実力者の死が、当時の文化人に大きな影響を及ぼした事は言うまでもないと思われる。
私は、この約20年間を批評意識が芽生え、また、その活動が盛んに行われた 「批評の時代」 と考えているが、そのような、社会情勢の中で、『徒然草嫌評判』は成立し、出版されたのである。

般若心経  など

般若心経

●私は、少し蔵書が溜まり出した頃、篆刻家に蔵書印を刻してもらった。酒田出身の篆刻家・冨樫省艸という方に出会って夢がかなったのである。蔵書印から、氏・名と進み、やがて遊印の世界に彷徨う。病膏肓に入る、の類だった。やがて、その数、数百点。人生の終末に及んで、この処置はむつかしい。ハタから見れば、タダの石ころである。しかも重い。しかし、世の中には、捨てる神もあれば、拾う神もある。昭和女子大学の光葉博物館で引き取って下さった。
●先日、久し振りに、如儡子の御子孫、齋藤豪盛氏にお会いしたら、同じ酒田の奉行の末裔とて、冨樫省艸氏の御厚意で、何点か彫ってもらったという。齋藤氏も私と同年輩、やはり、このイシコロの処置には頭を悩ましておられた。そこで、同じ、冨樫氏の作品でもあり、私のものと同居させて頂けないか、と送ってこられた。拝見すると、私の世界とは、かなり異なる宇宙であった。冨樫さんの偉大さを再確認した思いである。
●中に、『千字文』と『般若心経』の印影集があった。『千字文』は私も頂いていたが、『般若心経』は、思いもよらないものだった。確か、富樫さんの父上は、クリスチャンだった。
次の『般若心経』は、ネットより引用させて頂いた。
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『般若心経全文』


「魔訶般若波羅蜜多心経」 (まかはんにゃーはーらーみたしんぎょう)

観自在菩薩 (かんじーざいぼーさーつー)

行深般若波羅蜜多時 (ぎょうじんはんにゃーはーらーみたじー)

照見五蘊皆空 (しょうけんごーうんかいくう)

度一切苦厄 (どーいっさいくーやく)

舎利子 (しゃーりーしー)

色不異空 (しきふーいーくう)

空不異色 (くうふーいーしき)

色即是空 (しきそくぜーくう)

空即是色 (くうそくぜーしき)

受想行識 (じゅーそうぎょうしき)

亦復如是 (やくぷーにょーぜー)

舎利子 (しゃーりーしー)

是諸法空相 (ぜーしょーほうくうそう)

不生不滅 (ふーしょうふーめつ)

不垢不浄 (ふーくーふーじょう)

不増不減 (ふーぞうふーげん)

是故空中無色 (ぜーこーくうちゅうむーしき)

無受想行識 (むーじゅーそうぎょうしき)

無眼耳鼻舌身意 (むーげんにーびーぜっしんにー)

無色声香味触法 (むーしきしょうこうみーそくほう)

無眼界乃至無意識界 (むーげんかいないしーむーいーしきかい)

無無明 (むーむーみょう)

亦無無明尽 (やくむーむーみょうじん)

乃至無老死 (ないしーむーろうしー)

亦無老死尽 (やくむーろうしーじん)

無苦集滅道 (むーくーしゅうめつどう)

無智亦無得 (むーちーやくむーとく)

以無所得故 (いーむーしょーとくこー)

菩提薩垂 (ぼーだいさったー)

般若波羅蜜多故 (えーはんにゃーはーらーみーたーこー)

心無罫礙 (しんむーけーげー)

無罫礙故 (むーけーげーこー)

無有恐怖 (むーうーくーふー)

遠離一切顛倒夢想 (おんりーいっさいてんどうーむーそう)

究竟涅槃 (くーきょうねーはん)

三世諸仏 (さんぜーしょーぶつ)

般若波羅蜜多故 (えーはんにゃーはーらーみーたーこー)

得阿耨多羅三藐三菩提 (とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい)

故知般若波羅蜜多 (こーちーはんにゃーはーらーみーたー)

是大神呪 (ぜーだいしんしゅー)

是大明呪 (ぜーだいみょうしゅー)

是無上呪 (ぜーむーじょうしゅー)

是無等等呪 (ぜーむーとうどうしゅー)

能除一切苦 (のうじょういっさいくー)

真実不虚 (しんじつふーこー)

故説般若波羅蜜多呪 (こーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅー)

即説呪曰 (そくせつしゅーわー)

掲諦掲諦 (ぎゃーてーぎゃーてー)

波羅掲諦 (はらぎゃーてー)

波羅僧掲諦 (はらそーぎゃーてー)

菩提薩婆訶 (ぼじそわかー)

般若心経 (はんにゃしんぎょう)

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昭和女子大 facebook  いいね 2222

●今日、昭和女子大学facebookの いいね が2222になったとあった。1年9ヶ月の結果である。その内に、私の いいね もカウントされているのだろう。もっと、もっと、情報発信して、ネット界に飛び出して欲しい。
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昭和女子大学(Showa Women's University)
16時間前 · 編集済み ·
【広報部通信】皆さまのご愛読に感謝!!
6月26日
サイトをご覧の皆さまへ。
金曜日の夜にページの「いいね!」カウント数が2,222になりました。
公式Facebookをスタートさせて1年と9か月。在学生・教職員・卒業生・ご家族など、様々な人とつながることができました。ありがとうございました!
このFacebookは各学科のブログを引用しながらキャンパスの最新情報を提供しています。更新頻度が高いのは、各学科で毎日多彩なプログラムを実践しているから。学生レポートや学長ブログ、ボストンレポートなど、本学ならではの記事も満載です。
これまで支えていただいた学生の皆さま、教職員の方々。本当にありがとうございました。
そして全ての皆さまへ。
これからも応援よろしくお願いします!!!!
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齋藤家 墓所 参詣

齋藤家 墓所 参詣

●6月23日、24日と、二本松の松岡寺にある、齋藤家のお墓参りをした。齋藤家第13代豪盛氏御夫妻が、私と妻を招待して下さった。本年6月吉日に、第二墓碑(それからの齋藤家)の裏面に、追加補刻をしたので、それも確認するためである。長い期間、齋藤親盛(如儡子)を中心とする、齋藤家の歴史を研究してきたことに対する、子孫としての御礼だと申される。豪盛氏にしても、私にしても、祖先の調査、作者の伝記研究が継続できたのは、豪盛氏の奥様や、私の妻の協力なしには不可能であった。そこで、4人で、墓参を兼ねて、祝盃をあげよう、とのお心づかいであった。私としては、いくら感謝しても、し足りないくらいの気持ちで、お誘いに従った。

小手指 → 秋津 → 新秋津 → 大宮 → 郡山(齋藤氏御夫妻と合流、以下、豪盛氏の愛車セルシオ最新型にて移動) → 二本松(松岡寺にて墓参) → 塩釜(新鮮なネタの寿司の昼食) → 松島湾遊覧・松島へ → 蔵王町遠刈田温泉(バーデン家 壮鳳、宿泊、豪華な夕食で祝宴) → 米沢、宮坂考古館見学、米沢牛ステーキの昼食、米沢駅にて、齋藤氏御夫妻と別れる。帰宅。

●このような、2日間であった。長時間の車による移動であったが、妻も、全く疲れなかったという。高速道路などは、120キロのスピードであったが、全く疲れない。名車の威力を感じた2日間でもあった。

●新たに刻まれた文章を読みながら、感謝の思いがこみ上げてきた。この追加の文章は、齋藤家第13代豪盛氏が書き、清書は、昭和女子大学講師の承春先先生である。豪盛氏も、これだけやったので、もう、心残りの点はない、と申される。私としても、ここまで、研究できたのであるから、これ以上は望まない。この度の墓参は、4人にとって、感謝と満足の思いが強いものであった。

●新たに追加された文章は、次の通りである。

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斎藤家墓誌 追加

二本松、松岡寺の斎藤家墓所墓誌「それからの斎藤家」の裏面に、平成二十七年六月、次の文章が追加された。文章は、斎藤家第十三代斎藤豪盛氏、清書は、昭和女子大学講師、承 春先先生である。

「平成二十三年十月二十三日に 酒田市日枝神社神領地に 齋藤筑後守記念碑 を建立した。
撰文は昭和女子大学名誉教授 深沢秋男先生 謹書は昭和女子大学講師 承春先 先生 従兄弟の高橋宗明氏が制作、工事に心を込めて当たって下さった。
平成二十四年三月 三代親盛注釈の 百人一首注釈の研究書を深沢先生が刊行した。
平成二十四年五月十七日 湯沢の佐藤商事より祖霊舎を購入した。
平成二十四年五月十八日 須賀川の妙林寺より齋藤一葉墓を松岡寺に移転し供養した。
最初の墓地改葬に伴い墓石を確認したのは昭和四十四年の事。右奥に邦盛と華盛の墓石が並んで建っていた。華盛は系図に無く疑問に思っていた。漆間氏が制作して下さった位牌に一葉氏は須賀川で没との記録があり、長年探していたが場所が分からなかった。満願寺過去帳の調査に行き、第十六世大隈正光様から、松岡寺には明治まで齋藤姓は当家以外に無かったと知らされ、七代親盛の長男が華盛であると知った。以下一葉と娘のタケで絶家した事が分かった。それらの系譜を須賀川齋藤として下段に供養祭祀した。
一葉氏の墓石の発見には平成二十三年九月、須賀川市江持石の東北石材の社長を通じて取引先の各石材店に探索を依頼した。わずか六日目に発見の連絡が来た。
依頼を受けた須賀川深谷石材店の社長が共同墓地で作業をしていて、夕刻に厠に行く為にお寺に向かっていた際、後から肩を叩かれた感じがして後を振り向いた所に一葉墓があった、と知らされた。妙林寺は大正時代に火事にあい過去帳は焼失しており、見付かる要素は全然なく、まさに奇跡である。只一軒、歴史と由緒ある分家なので、分家の子孫が須賀川齋藤を再興してくれることを願うものである。

伝記の二代  盛廣  は深沢先生が調査検討の結果  廣盛  が正しい。
当家の苗字の字体は 齋藤 が正しい。

平成二十七年六月吉日 第十三代齋藤豪盛」
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●このように、齋藤家第13代豪盛氏御夫妻と、私たち夫婦の4名で過ごすことができた2日間、最高に幸せな時間であった。ここまで、調査・研究する事が出来て、こんなに有難いことは無い。齋藤氏御夫妻の御配慮・御厚意、そうして、妻の理解が無ければ、ここまで進めることは不可能であったと思う。研究者としての幸せを噛み締めた2日間であった。

ロボット ペッパー

●今日の 天声人語 はソフトバンクが発売した、ロ゛ット〈ペッパー〉を取上げている。
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天声人語 6月22日

夜、若い女性が帰宅する。一人暮らしらしい。人のかたちをしたロボットが出迎えた。「おかえりなさい。きょうはいい日でしたか」。女性は不機嫌だ。「うるさい。ほっといて」。ロボットはうつむく……▼ソフトバンクがおととい発売したロボット「ペッパー」の紹介映像だ。人の感情を読み取り、身ぶり手ぶりを交えて会話する。一緒に喜んだり、ため息をついたり。価格は19万8千円。初回分の1千台をたった1分間で完売したというから驚く▼ペッパーに使われているのは人工知能である。将棋のプロ棋士に勝って騒がれたのも人工知能だ。それは日々、賢さを増しているらしい。例えば人工知能を鍛え、東大に合格させようというプロジェクトが進む。有名作家の作風を分析し、小説を創作させる試みもある▼米国では、経済やスポーツの記事を自動的に書く人工知能が登場したと聞く。新聞記者としては穏やかではない。このままではいずれ人間の仕事の多くが奪われてしまう。真面目に危ぶむ声が出るのも当然か▼介護や接客といった職場にはすでにロボットが進出しつつある。事務労働の人々への影響が大きいとの見方もある。では本当に人間にしかできないこととは何か。深遠な問いが発せられる時代だ▼人工知能の限界も指摘される。そもそも人の心の仕組みがわかっていないのだから、人間を超えることはできまい、と。人情として賛成したくなる。未来は容易に見通せないが、例えば人工知能に詩は書けるか。

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●このロボット発売のニュースを見たとき、私は、即座に、これは売れる、必ず〈人間〉に受け入れられる、と言った。価格もまずまずだった。しかし、細君は、反対だった。人間に受け入れられない、と言う。私は、長年パソコンを使っていて、マイパソコンが可愛い、と思う時さえある。ネット上で、時には、ムッとすることもある。無機質なPCに、つい感情を思ってしまうのである。ペッパーは、猫や犬や金魚よりも、〈人〉を癒してくれると思う。いずれ、ペッパーの墓地が出来るかも知れない。そんな風に、私は思う。

韓国――日本近代・現代文学の現況

韓国――日本近代・現代文学の現況

昭和女子大学の日本文学科のブログに、近代文化研究所の講演の様子がレポートされていて、大変興味深い。
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小説の力〜韓国の先生に教えていただいたこと [2015年06月19日(金)]<日文便り>

本学附設の研究所のひとつである近代文化研究所は、「近代人の?いとなみ?を振り返る」をキャッチフレーズに、「日本の近代文化を対象に、文学を含めて衣食住の視点から、総合的・学際的な研究を行う研究所」です。
その近代文化研究所で、たいへん考えさせられる講演が行われました。

講 師 金 容安 先生 (韓国 漢陽女子大学教授、本学日本語日本文学科客員教授
テーマ 「韓国における日本近・現代文学の現況」
日 時 平成27年6月10日(水) 16時30分〜18時

DSC_8194 「1.最近の韓国大学・大学院における日本文学の教育環境」

まず、韓国の大学が少子化と進学率の低下で厳しい状況にあること、中でも人文学系(哲学、歴史、文学、外国語関連)がいちばんの危機にさらされ、就職の有利な学科に統廃合が余儀なくされているとのこと。

―おやおや、どこも同じ状況ですね。日本でも6月8日に文科省が全国の国立大学に向けて、
人文社会学系・教員養成系の学部などの見直し、廃止、分野転換の検討を求めたばかりです。

そのような中でも、子ども時代に日本の漫画やアニメ、ドラマに魅了されていた一部の学生が、日本語関連の学科に入学し、日本文学にのめり込みたいと頑張っているのだそうです。

―日本の学生が、韓流ドラマやK-POPから韓国語や韓国文化に興味をもって留学を考えるのと、似ていますね。
ところで、日本文学の何に関心が持たれているのでしょう。興味がわきます。

「2.文学研究の現状」 〜日本近現代文学を中心にDSC_8197

韓国には日本関連の学会は、30以上もあり、韓国研究財団の認定を受けている登載誌は18だそうです。

―想像以上に多いですね。

そのひとつ韓国日語日文学の「日語日文学研究」の2004年48輯から2014年91輯までの研究論文の調査のご報告は次の通り。
・論文総数 832本のうち、近・現代文学は302本(36%)
・うち明治時代の作品について 52本(17%)
・作家別トップは、芥川龍之介について 32本(10.6%)
理由 多様な解釈が可能であり、学生とも意見を交わしやすい。資料も豊富。
短編が多く、論文を書きやすい。

―納得です。芥川は日本でも色褪せていません。DSC_8204

村上春樹も圧倒的人気。その他、北村透谷・夏目漱石大江健三郎志賀直哉太宰治横光利一谷崎潤一郎など。森鷗外作品はあまり好まれておらず、研究も少ない。

―春樹は強いですね。鷗外も味があるのですが、難しいのでしょうね。
宮沢賢治が入っていないのが、意外でした。方言・地域資料の入手が壁になっているのでしょうか。

この後、研究の実例として、太宰治人間失格」、芥川龍之介「藪の中」、村上春樹トニー滝谷」とよしもとばなな「キッチン」を紹介なさり、今後の研究は巨匠作家(芥川など)と、現役作家(春樹など)の2つの流れに支えられる、と展望を述べられました。

「3.日本語関連学科の学生の日本文学学習の在り方」

学生や院生のアンケートをもとに、彼等が日本文学のどこに、どのように面白さを味わっているのか、紹介してくださいました。

三島由紀夫金閣寺」DSC_8216
母と倉井の事件を目撃する場面、父の死の場面、有為子の裏切り行為の描写 ほか

―いずれも、衝撃的な内容や、生死などのぎりぎりの状況を描いた場面ですが、韓国の学生さんたちは、
その内容を表層的にとらえるだけではなく、表現や作者の視線に着目して、人間の真実をとらえたものとして、
小説の力を味わっていました。
うれしい驚きです。日文の学生にも求めたいです。

そのほか、夏目漱石吾輩は猫である」、安部公房「赤い繭」「手」の感想が紹介されました。
今回、金容安先生のご講演を拝聴し、改めて文学・小説の力を考えさせられました。
韓国で生き生きと日本文学が息づいていることも嬉しいことでしたが、何よりも小説が、日本の文化を、国を越えて伝えるもの(外向きのベクトル)としても、ゆっくり人の心の芯に働きかけるもの(内向きのベクトル)としても、多大な力を秘めていることを教えてくださったようです。

日本語日本文学科の皆さん、私たちは人間の真実を豊かに表現した日本文学の、その継承者の一員なのです。

(FE)

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新渡戸稲造 『武士道』

新渡戸稲造記念館が閉鎖の危機に直面している、と新聞で知って驚いている。新渡戸稲造といえば、『武士道』が有名である。昭和女子大国語国文学科が人間文化学科になった頃だと思うが、卒論に『武士道』を選択した学生がいて、私が指導した。手許に資料がないので、正確ではないが、確か、依田さんだと思う。非常に熱心に研究して100枚以上の力作を提出した。文章が見事だった。驚いたことに、チェンバレンの説を批判していた。私は、2日間かけてこの卒論を読んだが、チェンバレンの論文を読んでいなかった。かえって、学生の卒論に多くの事を教えられた記憶がある。
●実は、新渡戸の『武士道』は、一般には広く知られていて、有名であるが、学界では、意外に評価が低いという。最近読んだ、笠谷和比古氏の『武士道  侍社会の文化と倫理』(2014年、NTT出版)によれば、多くの批判や修正が出ているという。

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「・・・・・・明治三十年代の頃から武士道は大きなブームとなって華々しい議論が展開され、雑誌『武士道』や『武士道叢書』の刊行をはじめとして数多くの関係論著が世に送り出されたのであるが、このような傾向に対して批判的な議論も提示されることとなる。次の二つのタイプの議論が重要で、今日の新渡戸『武士道』批判の原型をなすと言ってよいであろう。
その一つは、日本研究者として名高い英人チェンバレンの武士道批判である[★1]。彼は明治の日本社会で流行していた武士道論に関して、「武士道」というのは明治になって作られた造語であって、前近代社会には存在しないこと、そして武士道に関する物語は主として外国人に示すがために作られた虚構のものでしかないと極論している。
チェンバレンの権威は高かったので、その系統の研究の影響によってであろうか、今でも外国人研究者の間では、日本の武士道というのは明治期以降の近代になってから創造された言葉および概念であると信じている人が少なくない。
武士道批判のもう一方の雄は津田左右吉である。津田はその大著『文学に現れたる国民思想の研究』において、武士道の問題を主要テーマとして取り上げ、同書の五つの章にわたってこれを詳述している[★2]。
津田の議論は入念詳細をきわめており、それが故に今日にいたるまで武士道論を語り、研究するに際しての参照基準としての役割を果たしている。今日の数多くの武士道論に多大の影響力をおよぼしていると言ってよいであろう。
津田は明治・大正期に盛行を見ていた武士道賛美論に対してきわめて批判的な態度をとっており、武士道は世に喧伝されているがごとき立派なものではなく、裏切りと下克上の暴力的行動に他ならぬことを力説する。同書においては武士道のこのような不道徳性、暴力的側面が強調されており、「変態」「強盗」よばわりするなど、その批判の口吻はエキセントリックですらある。
いずれにしても、チェンバレンの言う、前近代の日本には「武士道」という言葉や思想は無かったというタイプの議論、そして津田の言う、武士道というのは裏切りや暴力的行為とほとんど同義であり、新渡戸『武士道』が描き出すような道徳的品性に満ちたものからは程遠いという種類の議論、この二種類のタイプの非難は今日においても再生産されているかに見える。・・・・・・」

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●私は、津田左右吉は、学生時代から尊敬していて、『文学に現れたる我が国民思想の研究』など、座右の書としていた。津田左右吉の説にも、検討の余地がある、と気づいたのは、大学を卒業して、数年を経た時であるが、その時は、天にものぼる思いだった。ようやく、津田説から一歩抜け出した、という気がしたのである。
●今、私は、『可笑記』と侍、武士に関しての論文を執筆中である。笠谷和比古氏の研究に導かれて、進めている。人間、長生きをすれば、いいことに巡り会える、そう思う。

新渡戸稲造記念館、ピンチ

●今日の朝日新聞の記事によると、新渡戸稲造記念館が閉鎖されそうだと言う。新渡戸の『武士道』は、有名で、ロングセラーである。このイザコザは、なんなのか。
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「新渡戸記念館」存続の危機 耐震性巡り家族と行政対立
鵜沼照都2015年6月19日10時02
青森県十和田市の基盤を築いた新渡戸傳(つとう)や、その孫で旧5千円札の肖像にもなった稲造らの功績を伝える「市立新渡戸記念館」の存廃をめぐり、市と新渡戸家が対立している。市は耐震調査に基づき、倒壊の危険があるとして廃館・解体を目指すが、新渡戸家は「調査に疑問がある」と法廷闘争も辞さない構えだ。 南部盛岡藩士だった傳は江戸時代末期、十和田湖の東側に広がる三本木原に川から水を引き、耕地にする開拓事業を主導。稲造は東京女子大学の初代学長、国際連盟事務次長などを務め、「武士道」の筆者としても知られる。 これらの功績を紹介するため、市は新渡戸家から開拓事業の史料などを有償、土地を無償で借りて1965年に2階建ての記念館を開設。館長は新渡戸家が市の特別職として歴任してきた。 市によると、昨年12月に市が記念館の耐震調査を実施した際、コンクリートの推定強度が極端に不足し、補修不可能で倒壊の危険性もあることが判明。これを受けて市は3月末で休館とし、6月定例会には月末での廃館と建物の解体撤去を提案した。26日の市議会本会議で可決されれば、賃貸借契約に基づいて更地にして新渡戸家に返す方針だ。
朝日新聞】デジタル より
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●念のため、他のブログをみたら、新渡戸家と市議会との間で、かなりのイザコザがあるようである。歴史的にも意義のある記念館であるから、よく話し合って、存続して欲しいものである。

如儡子と名刀正宗

名刀、東禅寺正宗と斎藤親盛

●今、刀剣女子という言葉が生れたように、女性の間で、日本刀の魅力が話題になってたいるという。私は、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛との関係で、名刀・東禅寺正宗のゆくえを長年探索してきた。これは、日本を代表する正宗の名刀であったらしい。如儡子は『可笑記』で、次のように書き留めている。
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「▲むかし、それがし、ためしのよろひをどし候はんとて、註文を仕り、おやにみせ候へば、親の申され候は、
ためしのよろひは、おもき物にて、汝がやうなる小男の用には立がたし。侍の諸道具は其身其身に相応して、取まはし自由なるがよし。
とて、其ついでにかたられけるは、
汝が母かたの舅東禅寺右馬頭、つねに申されけるは、運は天にあり、鎧はむねに有とて、幾度のかせんにも、あかねつむぎの羽織のみ、うちきて、何時も人の真先をかけ、しんがりをしられけれ共、一代かすでをもおはず。
一とせ出羽国庄内千安合戦の時、上杉景勝公の軍大将本庄重長とはせあはせ、勝負をけつする刻、敵大勢なるゆへに、四十三歳にして打死せられぬ。
其時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切おとされ、わたがみへ打こまれ、あやうき命いきられぬ、とうけ給はりしなり。きれたるも道理かな、相州正宗がきたいたる二尺七寸大はゞ物、ぬけば玉ちるばかりなる刀也。
此かたな重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴大閤公へまいり、其後、当御家へまいり、只今は二尺三寸とやらんにすり上られ、紀州大納言公に御座あるよしをうけ給はり及申候。
此右馬頭最期のはたらき、出羽越後両国において、古き侍は多分見きゝおよび、しりたる事なれば子細に書付侍らず。」
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天正16年(1588)の、十五里ケ原合戦の折、庄内軍の東禅寺右馬頭は、上杉軍の本庄重長と戦い、敗れて、43歳で戦死したという。この時、東禅寺右馬頭が持っていた刀が、実は、後に本阿弥光悦によって、相州正宗の作だと鑑定された。以後、名品として、徳川時代から、昭和まで、徳川家に伝えられた、と言われている。第二次世界大戦終結した、昭和20年、アメリカ軍が持ち帰ったとされている。思うに、武士の魂としての刀、その最たる名品、これを戦利品の象徴のように考えたのではないか。この刀が、後世、このような扱いになるとは、如儡子も予想は出来なかったであろう。