井関隆子と福沢諭吉

●古い資料を整理していたら、2005年3月発行の『学苑』第773号が出てきた。この号の新刊紹介には、東京大学名誉教授・坂梨隆三先生が、拙著、『井関隆子の研究』を採り上げて下さった。10年前のことであるが、懐かしく再読させて頂いた。御多忙の先生は、400頁以上の拙著を、正月休みを返上して丹念に読んで下さり、鋭く好意的な紹介をして下さった。改めて感謝申し上げる。
●その中で、私など意識していなかったこと、それは、福沢諭吉との共通点である。坂梨先生は、次のように述べておられる。
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「・・・・・・結論部の第四章では、井関隆子が「天性の批評者」であり、また、「持続する批評精神」の持ち主であったことが論じられる。
 批判精神の一例として、隆子は迷信を信じなかった。自分は、忌み事は一切してこなかったが、こんなに長生きしているし、家の次男が痘瘡にかかった時、神を祀ったが効果はなくて死に、長男が罹ったときは一切祀らなかったが全快したと言う。また、十二支というものも中国で考え出されたもので、本来あるものではない。自分の生まれ年だからと言ってどうということはない、それは迷信だと言う(pp64‐65、p330)。
 隆子の合理的な精神は、福沢諭吉を想起させる。神社のご神体を投げ捨て、代わりに小石を入れたが何の祟りもない、神様のお札を踏んでも何事もない、うらない、まじない、いっさい信じない、神様・仏様がこわいとかありかたいとかいうことはちっともない(『福翁自伝』)という福沢の精神は、そのまま隆子の精神に通じるように思われる。
 福沢よりも五十年ほど早く生まれた隆子が、すでに福沢と同様のことを言っているのである。武士としては下級に属する福沢と、同じ武士でも旗本夫人である隆子とは違うところもあろう。しかし、このような江戸後期の武士階級に共通して見られる合理精神・気概といったものが、来るべき明治の激変期にも、どうにか日本が対処し得た一因であったように思われるのである。
第三章(第二節ノ三)では、某の少将を、新田孝子氏が松平定信と想定するのに対して、深沢氏は水野忠邦を考える。その推論の過程は、名探偵が事件を解決していく推理小説を読んでいくような楽しさを味わわせてくれる。・・・・・・」
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●拙著をこのように、好意的に紹介して下さり、しかも、多くのことを、お教え頂き、改めて感謝申し上げる。
★この新刊紹介の全文は 「近世初期文芸研究会」の中の「井関隆子日記」の項に追加した。
http://www.ksskbg.com/takako/index.html

18年目の桜

●今日は、3月31日、日本全国が、平成14年度の最後の日として、年度を切り替える。昭和女子大では、今日、本年度で定年退職する教職員に辞令を交付するだろう。そうして、明日、4月1日には、新体制の人事の始動として、新任の辞令を出す。私は、10年前に退職して、2年間非常勤として大学へ行き、その2年後に、完全に大学から去った。
●ところで、数日まえから咲き始めた、我が家の玄関先のソメイヨシノが、新年度を祝すように、満開に近づいた。これから数日は、日本を代表する桜を楽しめる。しかし、その後は、花びらの掃除に悩まされる。
●私は、結婚して、調布市で新戸籍をつくった。その後、千葉の新検見川に引越し、その後、所沢市に転居した。18年前に、市内のここに引っ越した。所沢に約40年暮らしたことになる。ここで、『近世初期文芸』『芸文稿』『文学研究』をはじめ、多くの編著書を刊行したので、私の研究上の拠点となった。その意味で、所沢市は私の、研究生活の拠点でもあり、この地に支えられた。そのことに感謝している。
●現在の我が家は、ミサワホームのセラミックの外壁である。本がイノチの私は、火災のことを第一に考えた。大成パルコンにしたかったが、予算が足りなかった。しかし、このミサワのニューセラミックの家は、鉄骨ラーメン構造で、高性能準耐火構造だから、耐震も耐火もまずまずだろう。特に類焼は避けられる。大量の書籍・雑誌にも耐えている。有り難い、研究生活だった。
■18年前に植えたソメイヨシノ

■今日の桜 まだ満開ではない


詩誌 『黒豹』 第138号

●館山の黒豹社から、『黒豹』第138号が刊行された(平成27年3月30日)。詩人、尼崎安四、竹内勝太郎を尊敬する人々の活動である。私は、友人の松本靖君から、尼崎安四という詩人を教えられた。また、郷里の詩人、佐野千穂子氏から、『黒豹』の主宰者・諫川正臣氏を教えられ、『黒豹』をよむ機会を与えられた。心の奥底で、詩の世界を求めている私は、多くの感激と感動をもらった。
●この、第138号にも、尼崎安四の「尼院古仏」、竹内達太郎の「詩が永遠の現在であり得る所以」の文が載り、諫川正臣氏をはじめとする、同人8人の新作が掲載されている。このような自己表現の活動は、誠に大切である。
●私は、かつて、昭和女子大学の学生の創作活動のために、創作雑誌を創刊することを提案したことがある。その折、川嶋至先生から、それは、学生の側から自発的に提案が無ければ、上手くはゆかない、という意見が出され、創作の意欲、芸術意欲ということを痛感したことがある。その通りだと思う。
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川嶋 至(かわしま いたる、1935年2月15日 - 2001年7月2日)は、文芸評論家。

北海道札幌市生まれ。1958年、北海道大学文学部国文科卒業。1964年、同博士課程中退。1967年、『群像』に川端康成論を発表、岩手大学講師ののち、東京工業大学助教授、教授。

当初、川端康成の実証研究を行い、初期の恋人である「伊藤初代」について詳細な調査を行った[1]。細川皓の筆名を用いたこともある[2]。その後、1974年、江藤淳らの同人雑誌『季刊藝術』に連載した「事実は復讐する」で、安岡章太郎の『幕が下りてから』『月は東に』が、事実に基づきながら安岡に都合のいいようにこれを捻じ曲げていると指摘し、怒った安岡があるパーティーで川嶋と間違えて川村二郎に殴りかかり、文壇の権力者である安岡を批判したことで川嶋は文壇から「パージ」され、江藤淳の推薦で東工大教授になったという伝説がある。川嶋の世話で東工大に就職した井口時男の『危機と闘争』には、川嶋が死んだ時、文芸雑誌にはまったく追悼文は載らず、文壇は川嶋を抹殺したのだと書いてある。  【ウィキペディア より】
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■『黒豹』 第138号

近世初期文芸研究会 アクセス 188888

●今朝、6時25分頃、近世初期文芸研究会のアクセスが、188888 となった。大した情報は無いのに、これだけのアクセスがあった。私は、菊池先生のお蔭で、これまで、書き溜めてきたデータをネット上に公開することが出来て、これはラッキーだった。
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◎J−TEXTS(日本文学電子図書館) 901672 

2000年5月開設

◎菊池眞一研究室            558656 

1997年10月開設

近世初期文芸研究会          188888

1998年5月開設
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●私は、文明の利器は、極力活用する様に努めて来た。ワープロは、高価な頃に、昭和女子大の国文科の学科長・原田先生が市販された時、逸早く購入。私は、原田先生の研究室で、拝借して習った。最初の入力は、「私の『源氏物語』」だった。やがて、ワープロを購入して、原稿は全てワープロとなる。私は、岩崎さんのアイエスプロダクションに合わせて、OASYSにした。大学の研究室では安価な6万位の機種を使用したが、原稿作成には、プロ仕様の最も安価な、48VLと40APを購入した。40万円位だった。原稿執筆には、2台必要である。故障した時、ストップしないように。
●その後、ワープロからパソコンに変り、これも、原稿執筆用にデスクトップ2台備え、予備にノートを置いている。ただ、私ももう年だし、そろそろネット社会から引退しようと思っている。今、XPを使っていて、性能はどんどん落ちている。ツイッターフェイスブックも、もう開かない。毎日、お友達になりましょ、とメールが届くが、開けない。

■J−TEXTS(日本文学電子図書館

■菊池眞一研究室

近世初期文芸研究会

七つの仕事展 ―2015年春―

昭和女子大の教え子の出村実英子さんから、新しいグループ展の案内が届いた。彼女の卒論指導をしたのは、はるか昔、今も工芸の道に精進し、新作を世に問い続ける姿に、感動している。
●陶芸、彫刻、漆器、家具、ファイバー。それぞれの道にチャレンジし続ける工芸家の活動に胸うたれる。
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時  2015年4月4日〜4月13日
場所 五風舎
   奈良市水門町45
   電話 0742−22ー5541

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■七つの仕事展

■林 玖瞠

■久保良裕

■浦辻靖弘

■大河内久子

■出村実英子

■田中 茂

■坂手春美

■五風舎

宮澤照恵著 『『西鶴諸国はなし』の研究』刊行

●宮澤照恵氏の『『西鶴諸国はなし』の研究』が刊行された(2015年3月25日、和泉書院発行、定価13500円+税)。本書の内容は、次に掲げる目次の通りである。また、出版社のHPには、次の如く書かれている。
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西鶴諸国はなし』を多面的総合的に捉え、本作品が小説家西鶴の最も原初的な創作原理と方法とを含む咄の本であると位置付ける。まず書誌形態から版下の成立を論じ、明瞭に形態上の差異が認められる四章があること、そのうちの一話は咄の原初形態を再現する内容を持ち三話は構想・方法共に軽口ウソ咄を意図していること、更に四話は共にウソ絵を配することを明らかにし、この四話が『西鶴諸国はなし』を纏める際の核となった可能性を提示する。個々の作品論では、それぞれの素材を解明した上で、意外なものを取り合わせる着想のエネルギーや素材からの飛躍を論じ、西鶴のたくらみを炙り出すと共に新たな読みの可能性を追究する。作品研究の綴じ糸として「諸本書誌」・「綜覧」・「挿絵」・「研究史」・「資料」を配し、全体を俯瞰しつつ原質に及ぶ。こうした本書の基礎的かつ実証的な成果は、今後の『西鶴諸国はなし』研究の礎石となり、作品の豊かさを掘り下げる契機となろう。
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目  次
はじめに 

第一部 基礎的研究
 第一章 諸本調査報告―先後と版行状況― 
第二章 綜覧―成立論・方法論への手掛かりとして― 
   付表1 三五話の梗概 
   付表2 『西鶴諸国はなし』縦覧 

第二部 構想と成立試論
 第一章 書誌形態から見えてくるもの 
第二章 巻四「力なしの大仏」論―『大下馬』の原質(一)― 
 第三章 巻三「行末の宝舟」論―『大下馬』の原質(二)― 
 第四章 巻四「鯉のちらし紋」論―『大下馬』の原質(三)― 
 第五章 巻三「八畳敷の蓮の葉」論―『大下馬』の原質(四)―  
 第六章 挿絵と作画意識―「風俗画、怪異・説話画」と「戯画」と―
 終章  「構想と成立試論」に向けて 

第三部 咄の創作―構想と方法―
 第一章 巻一「大晦日はあはぬ算用」考 
 第二章 巻一「見せぬ所は女大工」考 
 第三章 巻五「楽の差かな●(魚+摩)●(魚+古)の手」考 
 第四章 巻二「楽の男地蔵」考 

第四部 研究史と課題
 第一章 戦後の研究史概観 
 第二章 戦前の研究史(1)―一九四五年(昭和20年)
             以前の作品評価― 
 第三章 戦前の研究史(2)―一九四五年(昭和20年)
             以前の語彙考証と典拠研究―
 第四章 戦前の研究史(3)―一九四五年(昭和20年)
             以前の俳文意識― 
 付 章 研究論文・資料年譜―一八六九年(明治2年)以降― 

第五部 参看資料
 一 西鶴本 
 二 古典籍資料 
 三 『盗賊配分金銀之辨 全』解題と翻刻 

あとがき 
索引 
図版一覧
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★詳細 → 近世初期文芸→新刊案内(近世文学・その他)http://www.ksskbg.com/sonota/shin.htm
●本書をはじめから読んだけれど、精読ではないけれど、私は圧倒されたり、感激したり、快い疲労を感じた。老齢化したからではない。第1部第1章の「諸本調査報告――先後と版行状況――」には感激した。版本であるから、仮名草子西鶴も同じである。私の仮名草子可笑記』の手法と相通う。元禄文学の第一人者西鶴の作品だから、『一代男』『五人女』だけではなく、全作品が、このように吟味されなければならない。私は、そんな風に思う。典拠論も勉強になった。近世初期の仮名草子から始まった、古典の摂取は、啓蒙期の特色であろうが、西鶴はそこから、近世の文学を創りだしたのだろう。本書は、研究史もあり、参考文献も完備し、『西鶴諸国はなし大観』だと思った。労作である。
■宮澤照恵著 『『西鶴諸国はなし』の研究』