詩誌 『黒豹』 第138号

●館山の黒豹社から、『黒豹』第138号が刊行された(平成27年3月30日)。詩人、尼崎安四、竹内勝太郎を尊敬する人々の活動である。私は、友人の松本靖君から、尼崎安四という詩人を教えられた。また、郷里の詩人、佐野千穂子氏から、『黒豹』の主宰者・諫川正臣氏を教えられ、『黒豹』をよむ機会を与えられた。心の奥底で、詩の世界を求めている私は、多くの感激と感動をもらった。
●この、第138号にも、尼崎安四の「尼院古仏」、竹内達太郎の「詩が永遠の現在であり得る所以」の文が載り、諫川正臣氏をはじめとする、同人8人の新作が掲載されている。このような自己表現の活動は、誠に大切である。
●私は、かつて、昭和女子大学の学生の創作活動のために、創作雑誌を創刊することを提案したことがある。その折、川嶋至先生から、それは、学生の側から自発的に提案が無ければ、上手くはゆかない、という意見が出され、創作の意欲、芸術意欲ということを痛感したことがある。その通りだと思う。
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川嶋 至(かわしま いたる、1935年2月15日 - 2001年7月2日)は、文芸評論家。

北海道札幌市生まれ。1958年、北海道大学文学部国文科卒業。1964年、同博士課程中退。1967年、『群像』に川端康成論を発表、岩手大学講師ののち、東京工業大学助教授、教授。

当初、川端康成の実証研究を行い、初期の恋人である「伊藤初代」について詳細な調査を行った[1]。細川皓の筆名を用いたこともある[2]。その後、1974年、江藤淳らの同人雑誌『季刊藝術』に連載した「事実は復讐する」で、安岡章太郎の『幕が下りてから』『月は東に』が、事実に基づきながら安岡に都合のいいようにこれを捻じ曲げていると指摘し、怒った安岡があるパーティーで川嶋と間違えて川村二郎に殴りかかり、文壇の権力者である安岡を批判したことで川嶋は文壇から「パージ」され、江藤淳の推薦で東工大教授になったという伝説がある。川嶋の世話で東工大に就職した井口時男の『危機と闘争』には、川嶋が死んだ時、文芸雑誌にはまったく追悼文は載らず、文壇は川嶋を抹殺したのだと書いてある。  【ウィキペディア より】
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■『黒豹』 第138号