齋藤家 墓所 参詣

齋藤家 墓所 参詣

●6月23日、24日と、二本松の松岡寺にある、齋藤家のお墓参りをした。齋藤家第13代豪盛氏御夫妻が、私と妻を招待して下さった。本年6月吉日に、第二墓碑(それからの齋藤家)の裏面に、追加補刻をしたので、それも確認するためである。長い期間、齋藤親盛(如儡子)を中心とする、齋藤家の歴史を研究してきたことに対する、子孫としての御礼だと申される。豪盛氏にしても、私にしても、祖先の調査、作者の伝記研究が継続できたのは、豪盛氏の奥様や、私の妻の協力なしには不可能であった。そこで、4人で、墓参を兼ねて、祝盃をあげよう、とのお心づかいであった。私としては、いくら感謝しても、し足りないくらいの気持ちで、お誘いに従った。

小手指 → 秋津 → 新秋津 → 大宮 → 郡山(齋藤氏御夫妻と合流、以下、豪盛氏の愛車セルシオ最新型にて移動) → 二本松(松岡寺にて墓参) → 塩釜(新鮮なネタの寿司の昼食) → 松島湾遊覧・松島へ → 蔵王町遠刈田温泉(バーデン家 壮鳳、宿泊、豪華な夕食で祝宴) → 米沢、宮坂考古館見学、米沢牛ステーキの昼食、米沢駅にて、齋藤氏御夫妻と別れる。帰宅。

●このような、2日間であった。長時間の車による移動であったが、妻も、全く疲れなかったという。高速道路などは、120キロのスピードであったが、全く疲れない。名車の威力を感じた2日間でもあった。

●新たに刻まれた文章を読みながら、感謝の思いがこみ上げてきた。この追加の文章は、齋藤家第13代豪盛氏が書き、清書は、昭和女子大学講師の承春先先生である。豪盛氏も、これだけやったので、もう、心残りの点はない、と申される。私としても、ここまで、研究できたのであるから、これ以上は望まない。この度の墓参は、4人にとって、感謝と満足の思いが強いものであった。

●新たに追加された文章は、次の通りである。

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斎藤家墓誌 追加

二本松、松岡寺の斎藤家墓所墓誌「それからの斎藤家」の裏面に、平成二十七年六月、次の文章が追加された。文章は、斎藤家第十三代斎藤豪盛氏、清書は、昭和女子大学講師、承 春先先生である。

「平成二十三年十月二十三日に 酒田市日枝神社神領地に 齋藤筑後守記念碑 を建立した。
撰文は昭和女子大学名誉教授 深沢秋男先生 謹書は昭和女子大学講師 承春先 先生 従兄弟の高橋宗明氏が制作、工事に心を込めて当たって下さった。
平成二十四年三月 三代親盛注釈の 百人一首注釈の研究書を深沢先生が刊行した。
平成二十四年五月十七日 湯沢の佐藤商事より祖霊舎を購入した。
平成二十四年五月十八日 須賀川の妙林寺より齋藤一葉墓を松岡寺に移転し供養した。
最初の墓地改葬に伴い墓石を確認したのは昭和四十四年の事。右奥に邦盛と華盛の墓石が並んで建っていた。華盛は系図に無く疑問に思っていた。漆間氏が制作して下さった位牌に一葉氏は須賀川で没との記録があり、長年探していたが場所が分からなかった。満願寺過去帳の調査に行き、第十六世大隈正光様から、松岡寺には明治まで齋藤姓は当家以外に無かったと知らされ、七代親盛の長男が華盛であると知った。以下一葉と娘のタケで絶家した事が分かった。それらの系譜を須賀川齋藤として下段に供養祭祀した。
一葉氏の墓石の発見には平成二十三年九月、須賀川市江持石の東北石材の社長を通じて取引先の各石材店に探索を依頼した。わずか六日目に発見の連絡が来た。
依頼を受けた須賀川深谷石材店の社長が共同墓地で作業をしていて、夕刻に厠に行く為にお寺に向かっていた際、後から肩を叩かれた感じがして後を振り向いた所に一葉墓があった、と知らされた。妙林寺は大正時代に火事にあい過去帳は焼失しており、見付かる要素は全然なく、まさに奇跡である。只一軒、歴史と由緒ある分家なので、分家の子孫が須賀川齋藤を再興してくれることを願うものである。

伝記の二代  盛廣  は深沢先生が調査検討の結果  廣盛  が正しい。
当家の苗字の字体は 齋藤 が正しい。

平成二十七年六月吉日 第十三代齋藤豪盛」
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●このように、齋藤家第13代豪盛氏御夫妻と、私たち夫婦の4名で過ごすことができた2日間、最高に幸せな時間であった。ここまで、調査・研究する事が出来て、こんなに有難いことは無い。齋藤氏御夫妻の御配慮・御厚意、そうして、妻の理解が無ければ、ここまで進めることは不可能であったと思う。研究者としての幸せを噛み締めた2日間であった。