仮名草子 『徒然草嫌評判』

徒然草嫌評判』

●今、『仮名草子集成』に収録する『徒然草嫌評判』のサブ校正をしている。書名の如く、『徒然草』を批判したものであるが、実に面白い。古典文庫の解説で、吉田幸一先生は、成立時期に関して、次のように記しておられる。
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「・・・『嫌評判』は、本文による限り寛永十三年中に一応成立しており、たとえ降つたとしても明暦(一六五六)頃か。そして、寛文十二(一六七二)に出版されるに至つたものと思う。」
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●私は、最近、こんなことを書いた。

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 寛永末年から寛文初年にかけて ――批評の時代――

寛永末年から正保・慶安・承応・明暦・万治・寛文初年にかけての時代状況に関しては、かつて考察したことがある。前に20年10箇月の寛永を、後に12年4箇月の寛文をもつこの時期は、通算して16年3箇月に過ぎないが、この間に正保・慶安・承応・明暦・万治と五度も改元されている。この時代が不安定で流動的な時期であったことが知られる。

寛永19年 寛永の飢饉は頂点に達する。
正保2年 江戸吉原全焼する。
慶安4年 三代将軍家光没。慶安の変。浪人抱え置きを禁ずる。
承応元年 承応の変。若衆歌舞伎を禁ずる。
承応2年 佐倉騒動。
承応3年 後光明天皇没。
明暦元年 かぶき者を追捕する。
明暦2年 江戸大火、48町焼失。
明暦3年 江戸、明暦の大火。死者10万人。林羅山没。
万治元年 江戸大火。
万治3年 江戸大火、2350戸焼失。佐倉藩主堀田正信、時政批判書を幕府に出し、改易となる。
寛文元年 京都大火。

大名の改易・転封による牢人の激増、参勤交代・築城などによる諸藩財政の逼迫、農政の転換等々の問題を前代から引き継いだこの時期は、それだけでも既に多難であった。その上に、寛永の大飢饉、幼少の家綱を残しての実力者家光の死、相続く大火などが加わったのである。社会が揺れ動く条件は揃っていたのである。

この時期、その思想の中心的立場にあった儒学界にどのような変革があったのか。日本近世初期の儒学は、藤原惺窩等によって究められた朱子学が中心であった。そして、惺窩に学んだ林羅山が慶長12年に将軍家の侍講となって以来、朱子学徳川幕府の官学としてその隆盛を極めたのである。しかし、この林羅山が75歳で没した明暦3年は、この儒学界に新しい動きが芽生えはじめた時期でもあったのである。中江藤樹・熊沢蕃山の陽明学や、山鹿素行伊藤仁斎の古学などがそれである。

寛永19年 熊沢蕃山、中江藤樹に師事する。
正保元年 37歳で『陽明全書』を読み、朱子学より陽明学へ転向する。
正保2年 熊沢蕃山、池田光政に再び仕える。
慶安元年 中江藤樹、41歳で没する。
慶安三年 中江藤樹の『翁問答』刊行。
承応元年 山鹿素行、浅野長直に仕える。
明暦2年 山鹿素行の『武教要録』『修教要録』『治教要録』成る。
明暦3年 林羅山、75歳で没する。
寛文2年 伊藤仁斎、古義堂を開く。
寛文5年 山鹿素行の『武教小学』『聖教要録』『山鹿語録』成る。
寛文6年 山鹿素行、『聖教要録』の事により赤穂へ預けられる。

このような思想の対立・論争は、儒学界のみでなく、仏教各派においてもなされており、さらに、儒仏の論争も活発に行われていたのがこの時代であった。
このような社会状況の中で生れた著作物を概観して気付く事は、慶長・元和・寛永期にそれほど見られなかった批評書の類が目に付く事であり、次第にその数を増している事である。

1、 古典注評釈の隆盛
2、 俳諧論争書の続出
3、 遊女評判記・役者評判記の発生
4、 軍記物および軍学書評判の出版
5、 仮名草子・批評書類の刊行

1、 古典の注釈が盛んになされ、評釈的色彩を強くしてきた。 2、俳諧論争が発生し、その批評書が次々と刊行された。 3、役者評判記や能評が発生し、遊女評判記の中には、批評書的作品が現れてきた。 4、軍記物や軍学書の批評が盛んに行われた。 5、仮名草子の中にも批評書的作品が現れてきた。

寛永末年から寛文初年までのおよそ20年間、この時期には、このような批評書の類が多く著作され、刊行された。このような現象の原因を、今即断する事は出来ないが、前述の如く、この時代は天災に人災にと大いに揺れ動いていた。そして、慶安4年の徳川家光、承応2年の松永貞徳、明暦3年の林羅山と、この相続く実力者の死が、当時の文化人に大きな影響を及ぼした事は言うまでもないと思われる。
私は、この約20年間を批評意識が芽生え、また、その活動が盛んに行われた 「批評の時代」 と考えているが、そのような、社会情勢の中で、『徒然草嫌評判』は成立し、出版されたのである。