『井関隆子日記』 刊行

●NHKの朝のドラマ「アンと花子」で、村岡花子訳『赤毛のアン』の出版に至るまでの経過を見ていて、私は、井関隆子の日記が出版に至る経過を思い出した。『赤毛のアン』と同様なものだった。
仮名草子研究を続けている私が、桜山文庫の写本「天保日記」全12冊に出会ったのは、昭和47年のことである。その翌年、神田の出版社・錦正社から新シリーズの叢書を出すので、この日記に注を付けて欲しい、と依頼された。写本を読んでみると、これは、価値がある日記と判断し、作業にかかった。上中下の3冊で刊行することになり、ようやく上巻の原稿が完成した時、錦正社の企画が中止となってしまった。あちこちの出版社に打診しても引き受けてはもらえなかった。
●しかし、私は仮名草子に戻らず、この日記の原稿作成に没頭した。3000枚の原稿は仕上がったが、出版してくれる出版社はなかった。昭和52年5月、勉誠社に原本と原稿を持参して、池嶋社長と編集者に会ってもらって、出版を検討して欲しいとお願いした。
●忘れもしない。5月7日、勉誠社の池嶋社長から電話があった。出しましょう、とのお言葉。私は天にも昇る思いだった。どのような形で出して下さるのですか? と問うと、「日記文学として出しましょう」と申される。私は、電話の前で、深ぶかと頭を下げて、心から御礼を申し上げた。
●『赤毛のアン』の出版社の社長も、自分で原稿を読んで、その価値を見抜き、出版を決断した。勉誠社の池嶋社長も、御自分で原稿を読み、その文化的価値を評価して、出版を決断された。実は、ここに、出版という職業が文化的に高く評価される所以があるのである。出版は素晴らしい職業である。
●『赤毛のアン』は、村岡花子の苦労の甲斐があって、ベストセラーになったが、我が『井関隆子日記』は、著者も校注者も無名の故に、さっぱり売れず、出版社には在庫の山となり、大変ご迷惑をかけてしまった。私は、在庫品を特別価格で頂いて、昭和女子大学の国文科の講読に使用した。高価なテキストの授業を履修してくれた、学生に感謝している。
●全く知られていない、無名の女性の日記であるが、今、その文学的価値を思う時、テキストに使用した事は誤りでなかったことが、確認できて、これは、嬉しい。
勉誠社版『井関隆子日記』
 上巻・・昭和53年11月30日発行
 中巻・・昭和55年 8月30日発行
 下巻・・昭和56年 6月 5日発行