『可笑記』の読者

●『可笑記』の読者の1人として、榎本弥左衛門忠重が明らかになった。私はかつて、金閣寺鹿苑寺第二世の鳳林承章禅師の日記『隔蓂記』を、明けても暮れても、毎日読んだことがある。初期俳諧の付合の調査のためであった。

『隔蓂記』は、鹿苑寺第二世・鳳林承章禅師が、寛永12年から寛文8年までの、34年間に亙って書き記した日記であるが、その寛永20年4月14日の条に、

「自金光寺、可笑記四五之弐冊来也」

と見え、11日後の25日には、

可笑記弐冊返納。于金光寺之次、岩茸一包贈之、則返簡之次、大笋五本被恵之也」

とある。鳳林は、勧修寺晴豊の第6子として生まれ、その叔母・新上東門院は、後陽成天皇の御生母である。後水尾上皇の許にしばしば出入りし、文事を愛し、ことに俳諧を好んだが、堂上人としては屈指の上手であったとされている。『可笑記』の初版は寛永19年秋と思われるが、その翌年の4月に、鳳林(51歳)は七条坊門の金光寺覚持から借用しているのであり、それも5巻金冊揃いではなく「四五之弐冊」とあることは、種々の事をわれわれに想像させる。

借用したのは入手困難のためだったのだろうか。『善悪物語』同様に、その間に書写したのだろうか。購い求めて手元に置く必要を感じなかったからなのか。おそらく巻一、二、三もそれ以前に借りて読んだのではなかろうか。あるいは、堂上俳諧グループの中でも、この作品はかなり話題になっていたのではないか。さらに20年4月という日付は、寛永19年が初版であることの、多少の支えになりはしないか。等々。

いずれにしても『可笑記』の具体的な読者を二人(覚持と鳳林)、ここに見出したのである。
鹿苑寺第二世・鳳林承章禅師の日記を読んだのは、昭和42年(1967)のことである。『可笑記』の読者も幅広くなり、現在では、高校の入試にまで採用されている(京都公立・香川公立)。
金閣寺

■『隔蓂記』
  当時は、索引は無かった。