『可笑記』を読み候らいて、心落ち着き候也。

●若尾政希氏の論文「歴史と主体形成――書物・出版と近世日本の社会変容――」(「書物・出版と社会変容」第2号、2007年1月)を読んで、近世初期の川越の豪商、榎本弥左衛門が、その記録『榎本弥左衛門覚書』の中で、『可笑記』を読んでいたことを知った。
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榎本弥左衛門 えのもと-やざえもん
1625−1686 江戸時代前期の商人。寛永2年生まれ。関東一円で塩やたばこの商売をいとなんだ武蔵(むさし)川越(埼玉県)榎本家の4代目。自分の体験・見聞したことをしるした「万之覚(よろずのおぼえ)」と,子孫をいましめた「三子(みつご)より之覚」をかきのこした。貞享(じょうきょう)3年死去。62歳。名は忠重。  【川越紀行より】ネット
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榎本弥左衛門覚書 (県指定・古文書)
「榎本弥左衛門覚書」は、本町(現在の元町一丁目)の名主を勤めた榎本弥左衛門忠重が記した生涯六十二年の記録。「三子より之覚」と「万之覚」の二冊からなります。 「三子より之覚」 は、弥左衛門が三歳から六十歳までに当たる寛永四年から貞享元年まで(一六二七〜八四)の経歴と事件・世情・物価などが編年で記され、五十六歳のときに大半を書き、後に書き加えられました。自分を中心として自己評価を交え、子女への教訓にしたと考えられます。  【川越の人物より】ネット
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●正保2年、21歳の時の記載 (『榎本弥左衛門覚書』大野瑞男氏校注、東洋文庫)より
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廿壱才之時。弥正直ニ、おごりなき様ニ可仕と存候へども、わかき故、人々取上げうすし。漸十ノ物四つほど也。とかく道理ニあたらぬ事を申間敷と常ニおもひ申候。気のつよき義はやみ不申候。・・・中略・・・此年迄、我等分別能事をばかくし、悪敷事をばかたり聞せ、身のひげを仕候て、手からはなしは見ぐる敷と存、ふかくかくし候間、人々見あげ不申候迄、れきれきの物被仰候へども、心之内ニてせんぎ仕候へども、合点不参候に付、おち付不申所ニ、『可笑記』をよみ候て心おち付申候也。
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如儡子の『可笑記』は、初版が寛永19年(1642)である。21歳の榎本弥左衛門は、3年後の正保2年に『可笑記』を読んで、心が落ち着いたという。『可笑記』は金閣寺の高僧も読んでいる。川越の商人も読んだ。そうして、納得したと言うのである。私は、榎本弥左衛門に関しても、無関心ではいられない。
■榎本弥左衛門 東洋文庫 より

■『榎本弥左衛門覚書』の原本  東洋文庫 より

■『可笑記』に言及した条  東洋文庫 より