鹿島則文 という人物

●昭和53年(1978)頃だったと思う。桜山文庫の所蔵者、鹿島則幸氏から、祖父の伝記をまとめて頂けませんか、と打診された。私は、桜山文庫には大変な学恩を蒙っていたので、文庫の収集者・鹿島則文には、大きな関心があった。それで、喜んでお引き受けした。現在、『ウィキペディアWikipedia)』には、次の如く書き込まれている。誰が執筆したか知らない。私は一部の誤植を訂正したのみである。
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鹿島 則文(かしま のりぶみ、1839年1月13日 - 1901年10月10日)は、幕末・明治時代の神職
鹿島神宮宮司であった鹿島則孝の子として生まれる。号は桜宇。儒書を安井息軒に学び、また、自ら皇典を究め国事に奔走、1865年(慶応元年)、幕府に忌まれ八丈島に流される。1869年(明治2年)赦免、1873年明治6年鹿島神宮宮司1884年明治17年)神宮宮司に任じ、祭儀の復興、林崎文庫の整備、神宮皇學館皇學館大学の前身)の拡充、『古事類苑』の出版などに尽力した。1898年(明治31年)、神宮炎上の責を負い辞職し帰郷。1901年(明治34年)10月10日、63歳で病没。茨城県鹿島郡鹿島町三笠墓地に葬る。
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外部リンク 昭和女子大学図書館所蔵・桜山文庫 深沢秋男研究室
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●私は、まず、『国学者伝記集成』を引用し、続いて、子息・鹿島敏夫氏の『先考略年譜』を全文翻刻した。以下、八丈島送り、伊勢神宮・大宮司拝命、皇学館大学の開校、古事類苑の編纂刊行、桜山文庫、とこのように立項して、則文の生涯をまとめた。
●ただ、則文の生涯をたどって、ゆきづまったのは、則文の著作の少なさであった。私など、1冊でも多くの著作を世に出したいと努力していた。そんな私にとって則文の生き方は理解できなかった。則文の書き残したのは、八丈流人時代の『南遊雑録』『八丈八景帖』『南島名勝集』(編著)くらいしか無かった。則幸氏におたずねすると、「ございません」というお答えのみ。私は、途方にくれた。これでは、則文の伝記はまとめられない。
●そこで、頭に浮かんだのは、あの、狩野亨吉だった。
 日本自然科学思想史の開拓者と言われる、哲学者で大教育者の狩野亨吉は、死後、書き残したものを集めたところ、一部の小冊にしかならなかったという。しかも、亨吉の蒐集した貴重な古典籍は「狩野文庫」として遺された。

 性、書ヲ愛スル人ニ過ギ、公暇手書ヲ舎カズ、用ヲ節シ費ヲ省キ、書ヲ求メテ息マズ、飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ。経史小説高尚卑近ヲ問ハズ。晩年、家ニ蓄財ナキモ、珍籍奇冊三万冊。人之ヲ云ヘバ、曰ク、妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ。予、飲ヲ解セズ、書ハ予ガ妓ナリ、予ガ酒ナリト。

 則文が生涯をかけて蒐集した珍籍奇冊は「桜山文庫」として後世に遺された。則文と亨吉と、その思想的立場は異なっているが、両者の生き方に、何か、相通じるものがあるように思われてならない。
●このような、理解と解釈をすることによって、私は、未熟ではあるが、鹿島則文の伝記を締めくくる事が出来た。

●この小伝「鹿島則文桜山文庫」は、昭和55年8月30日、勉誠社発行、『井関隆子日記 中巻』に収録されている。

■幕末維新の頃の鹿島則文

神宮皇學館館長時代の鹿島則文