鹿島則文の序文

●先日、高原氏から、鹿島則文の文章を頂いた。大谷秀實の『祭典礼法』に寄せた序文である。末尾に「明治十七年三月  かしまのりふみ」とある。即文は慶応2年(1866)、水戸浪士と交流したというカドで、幕府の忌むところとなり、八丈島へ流された。明治2年(1869)赦免となって鹿島へ帰る。明治6年に鹿島神宮の大宮司となり、明治17年4月には、伊勢神宮の大宮司に任命され、伊勢に赴任している。この『祭典礼法』の序は、伊勢に赴任する直前のものと思われる。
●明治17年3月17日、内務省社寺局の諫早生二・井上真優から鹿島則文宛の書留速達便が届く。伊勢神宮宮司は、人材が無く、貴兄に就任して欲しい、というもの。則文は則孝と相談して、これを承諾した。4月2日付、太政大臣三条実美から伊勢神宮宮司を任命され、鹿島家は伊勢に移住する。
●則文は、明治16年に、茨城県皇典講究分所長に就任していた関係もあって、大谷秀實の『祭典礼法』に序文を寄せたものと思う。則文に関しては、私も調査・研究はしているが、著作は極めて少ない。その意味でも、この序文は貴重だと思う。

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鹿島則文の序