『百八町記』(ひゃくはっちょうき)

●『百八町記』(ひゃくはっちょうき)

儒教・仏教・道教の三教一致を説いた仮名草子。版本、5巻5冊。

著者  斎藤親盛・如儡子
5巻巻末の「愚序」に、「承応四年秋始下日/如儡子これを躙にす」とあり、その後に「物故 武心士峯居士老後加筆」
とあるので、承応4年(1655)に如儡子が書き、老後出家した身で加筆したものと解釈される。「物故」は、一般に死者・死後の意味で使用されるが、ここでは、仏門に帰依したという意味で使われているものと思われる。この「物故」の解釈に関しては、僧籍にあった漆間瑞雄氏の示教を得た。斎藤親盛は、万治3年(1660)に、江戸から二本松へ一家そろって移住した。次の年に娘(一竿宗筠禅定尼)が他界し、松岡寺に葬った。さらに2年後の、寛文3年(1663)に妻(玄光妙宗大姉)を失う。次の年に『百八町記』は刊行されている。如儡子・62歳の時である。そのような状況の中で、この「物故」は使用されている。如儡子は、長年連れ添ってきた妻の他界の前後に仏門に帰依したのであろう。宗派は、菩提寺・松岡寺の、臨済宗であったと思われる。
寛文10年(1670)刊『増補 書籍目録 作者付/大意』に「五冊 百八町記 如儡子作浅井松雲加筆 三教一理之書」とあり、同時代の仮名草子作者・浅井了意が加筆したと記している。これに関しては、諸氏の調査・考察があるが、浅井了意加筆という説には否定的である。今後、検討を加えたいと思う。

書名
棚倉藩士・上坂平次朗の『梅花軒随筆』に「……儒者斎藤意伝浪人して後、可笑記、百八丁記〔三教一理ヲ壱里ニシテ三十六丁ヲ合スト云心ナリト〕、堪忍記抔を作りけるゆへ、かへつて用ひられざりしとなり。」とあるように、儒教・仏教・道教に、それぞれ一理があるという意味で、1里が36町、3里で合計108町として、書名にしたという。

成立 
「愚序」に、「承応四年秋始下日/如儡子これを躙にす」とあり、その後に「物故 武心士峯居士老後加筆」とあるので、承応4年(1655)秋に一応成立した。この年は4月に改元され明暦と年号が変わっているので明暦元年の成立という事になる。著者は、その後も加筆したというので、最終的には、刊行の寛文4年(1664)に如儡子の手を離れたという事だろう。刊記は「寛文四 甲辰 五月吉日/中野道伴板行」とある。如儡子、62歳の時である。

内容 
儒教・仏教・道教の三教一致を説くことを中心にした教訓書。巻1の巻頭で「夫、所謂三教は儒釈道の三法なり。儒といふは三皇よりもつておこなはるといへとも、時聖の孔子を本となす。釈といふは七仏よりもつておこなはるといへとも、大聖世尊を本となす。道といふは至哲よりもつておこなはるといへとも、金仙老子を本となす。……漢より以来の賢人君子明徹の人〳〵、いつれも三教一致の詞あれは、釈迦老子孔子の三法は、一言一句も去へきにあらす。……」このように述べている。形式は「儒学者曰く」「ある人問ひて曰く」と問答体をとり、「私に曰く」と1字下げて、著者の意見を述べている。主たる典拠は、中国の延慶一元木禅師の『帰元直指』で、寛永20年(1643)に出版された和刻本を使用している可能性がある。

特色 
三教一致思想は、中国では、儒教・仏教・道教の一致を指す。日本では、神道儒教・仏教の一致も説かれた。近世初期の仮名草子の時代には、儒教と仏教の儒仏論争が盛んに行われ、その結果として、三教一致論が説かれた。本書もその1つである。如儡子は『可笑記』では、儒教的立場からの発言が多いが、『百八町記』では、仏教的立場に移っている。

諸本 
1、 寛文4年版 大本、5巻5冊、全169丁。奥書、5巻の末尾
に「愚序」として、「承応四年秋始下日/如儡子これを躙にす」とあり、
その後に「物故 武心士峯居士老後加筆」とある。さらに、その後に、
「武藤氏西察書之」とあるが、これは筆耕の名。刊記は、巻5最終丁
に「寛文四 甲辰 五月吉日/中野道伴板行」とある。

2、 寛文4年銭屋三良兵衛版 水波問答、大本、5巻5冊、改題後
 印本。

複製 
1、仮名草子選集・国立台湾大学図書館本影印(1972年1月、台
北・大新書局発行)。寛文4年、中野道伴版の複製で、巻頭に、巻
1・巻2の原表紙の写真を掲げ、略書誌を付す。複製は、原本を解
体して、1丁開いた形で収めている。底本は、台湾大学図書館の寛
文4年版と思われる。

翻刻
1、 日本思想闘諍史料・第5巻(昭和5年、東方書院発行)寛文4
年、中野道伴版を底本にしているものと思われるが、振り仮名は省
略している。

参考
斎藤親盛(如儡子)の研究→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

■■『百八町記』 奥書

■■同 刊記