雲烟過眼(うんえん かがん)

鈴木重嶺漢詩の軸の落款に「緑堂」「雲烟過眼」とあった。「緑堂」は重嶺の号であるが、「雲烟過眼」は中国から伝えられた、成語で、雲や煙が眼の前をすーっと通り過ぎるように、楽しみにいつまでも執着しないという意味。出典は、中国の唐宋八大家1人・蘇軾の『宝絵堂記』である。この落款を私は初めて見たが、これは、鈴木重嶺・翠園を考える上で、非常に参考になる。

●重嶺は、勘定奉行佐渡奉行という大役を果たしているが、反面で、多くの人々に接して、心安く付き合い、方々の歌会にも参加し、歌の指導もしている。また、晩年は零落して貧窮の生活を続けたようであるが、その苦しさが深刻に伝わってこない。

鈴木重嶺は、勝海舟と深い交流があったが、海舟は零落した晩年の重嶺に、しばしば金品を贈っている。勝海舟の日記によれば、明治15年11月に鈴木重嶺が零落したので救助する旨の記述があり、以後、しばしば、金を渡している。名目は、中元であったり、刀代であったり、掛軸代・絵画代・歌集の編集料であったりする。また、貸してもいるし、その返金の記録もある。

●海舟は、10歳年長の重嶺の力量を評価し、文事の面では尊敬もしていたのではないかと思われる。それにしても、重嶺が海舟から貰った金銭はかなりの額になる。ざっと計算しても250円になる、明治15年〜29年のことであるから、大変な額である。この点は、いずれ、考えなくてはならない。
■■落款 1 「緑堂」

■■落款 2 「雲烟過眼」