書を校するは 研究か?

●もう何十年も前、近代の研究者から質問された。古典を現在の活字に置き換えるのは研究ですか? ただ、変体仮名を活字体に変えるだけでしょう? 私は、何もコメントしなかった。彼女はこの仕事を否定的に捉えていて、その裏付けをとろうとしていたのが分かったからである。

●ある若い研究者が、どこかの大学の先生から、古典の翻刻などしても業績としてカウントされないので、しない方がいいよ、と注意されたとも聞いた。文部省が審査するとき、そんな基準を持ち出している、とも仄聞した。この人には、我々は業績を挙げるために、古典の校訂をしているのではないでしョ、古典を研究するためでしョ。と答えておいた。

●大学教員の場合、研究業績が問題になり、研究論文は何点、著書は何点、それを問題にして、採用・昇格・研究費の配分などに使う。研究者の書いた文章にも、様々なものがある。論文・解説・評論・資料紹介などなど。それらを研究業績として、どのような基準で評価するか。

変体仮名を活字体に置き換えるのは、言ってみれば、職人の作業で、研究ではない、という考えもあるだろう。それは、校訂という崇高な仕事をした事の無い御仁の皮相的な考えである。校訂という仕事は、実は、奥が深いのである。マックス・ウェーバーが、古典の一字の読み取りに、何時間も何日間も費やす、意志と持続力のない者は研究者になれない、と言っている事を思い起こす必要がある。漢字の字体、言語の素養、当時の時代背景、作者の特徴、などなど、底無しである。従って、若い時の校訂には、未熟の故のミスが多い。しかし、習熟してきた時には、老化現象も進む。これが、人間の限界であろう。