校書如掃塵

●「書を校するは塵を掃うが如し」書物を校合する作業は、塵を掃いても完全に掃き尽くすことが出来ないのと同じように、何回校合しても、完全な本文にすることはむつかしい。出典は、中国、宋の沈括の『夢渓筆談』である。

「宗宜献、博学にして、喜びて異書を蔵す。皆手ずから校讎し、常に謂う。書を校するは塵を掃うが如し。一面掃えば一面生ず。故に一書有れば、毎(つね)に三四たび校するも、猶、脱謬有り。」

●書物を校訂して定着する作業は実にシンドイ仕事である。日本の古典の場合は、原本が、写本や版本である。それらは、変体仮名で書かれている。このままでは、明治以降の活字体に慣れている、現在の我々には読みづらい。そこで、変体仮名を活字体に置き換える作業が必要になる。この時に、目的によって、校訂基準が異なるので、さらにやっかいになる。

●私は、今、浅井了意の『可笑記評判』を校訂していて、ようやく、その作業が終わろうとしている。全10巻、542丁、1084頁、総合計字数28万6千字。振り仮名を入れれば、おそらく、その2倍の字数になるだろう。パソコンによる原稿作成であるから、大変な仕事である。しかも、途中、PCのトラブルで、巻1〜巻4のデータ消失があった。来る日も来る日も、変体仮名とパソコンを往復する。シンドイ作業である。

●実は、この作品とは、私の研究人生の中で長い付き合いである。昭和45年に謄写版で一度出した。続いて、昭和52年に複製本として出した。次は平成6年に『仮名草子集成』に入れた。この時は、朝倉氏が原稿を作成したが、校正は私と2人である。そして、今回の『浅井了意全集』である。研究生活の最初と最終に、この作品に取り組んだことになる。1つの宿命とも言えるだろう。

●これだけ、関与しての本文作成ゆえ、もうミスは少ないだろう、そうでなければ、研究者としての資格が問われるだろう。しかし、「校書如掃塵」である。長い研究生活を振り返って、忸怩たるものがある。

■■「校書如掃塵」陰刻縦長方形朱印、40ミリ×18ミリ。冨樫省艸 刻