祖父は東禅寺右馬頭・勝正

仮名草子可笑記』の作者、如儡子・斎藤親盛は、東禅寺右馬頭・勝正を自分の母方の祖父(おぢ)だと言っている。同書、巻5の20で、次の如く記す。

「(父の言うには)汝が母かたの舅(おぢ)、東禅寺右馬頭、つねに申されけるは、運は天にあり、鎧はむねに有りとて、幾度のかつせんにも、あかねつむぎの羽織のみ、うち着て、何時も人の真っ先をかけ、しんがりをしられけれ共、一代かすでをもおはず。一とせ、出羽国庄内、千安合戦の時、上杉景勝公の、軍大将・本庄重長とはせあはせ、勝負をけつする刻、敵、大勢なるゆへに、四十三歳にして打死にせられぬ。
其の時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切り落とされ、わたがみへ打ちこまれ、あやうき命、いきられぬと、うけ給はりしなり。きれたるも道理かな。相州正宗が、きたいたる二尺七寸大はば物、ぬけば玉ちるばかりなる刀也。
此かたな、重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴太閤公へまはり、其の後、当御家へまいり、只今は、二尺三寸とやらんに、すり上げられ、紀州大納言公に御座あるよしを、うけ給はり及び申し候。・・・」

●これは、著者が父から聞いたことで、あるが、伝記史料としては、一級史料に準ずるものであろう。私の如儡子の伝記研究も、そろそろ、この段階の史料の検討に入ってきた。

■■『可笑記寛永19年11行本。桜山文庫旧蔵本

■■『可笑記』無刊記本。長澤規矩也先生旧蔵本

■■『可笑記評判』筆者蔵本 ①

■■『可笑記評判』筆者蔵本 ②