翠園・鈴木重嶺の短冊

●今日、菊池氏に依頼していた、鈴木重嶺の短冊が届いた。
「木枯 夜あけなばもりも曇らぬ空や見む あけらはねらねこからしの風 八十叟 重嶺」
である。翠園、80歳といえば明治26年。85歳で没しているので、その5年前の詠。晩年の歌人の晩秋から初冬にかけて吹きすさぶ、木枯への思いがある。

●翠園の歌をいくつか掲げる。
○梅かかをはこふを待し手枕の すきまの風の寒くも有かな
○雨はれてなく鶯の羽ふるひに 梅のしつくもちる朝けかな
○雪に社近くみえしかうらうらと かすみて遠きちちふかひかね
○待遠におもふ花には杖よりも まつひらかるるは心なりけり
○永き日にむすひし夢もさめぬれは 猶はかなさはよはにかはらぬ
○しらしらと月澄る夜のうめの花 雪ふみ分てみる心ちする
○我すめる松の林は吹かせの 音より外に音つれもなし
○とふ人のたえたるのみか降雨も かやの軒端は音せさりけり
○すこもれる雛もこそあれ声たえす たつそ鳴なる山松の上に

●これらの歌は、明治23年10月28日発行の、松浦詮編『蓬園月次歌集』に収録されているものである。当時、重嶺は牛込区神楽町に住んでいたと思うが、まだ、徹底的な調査はしていないので、断言はできない。これからの仕事である。鈴木家は、2代・重元の時、武州豊島郡大久保村に4千坪の領地を拝領している。かなり広い面積であるので、あるいは、役目上の作業場も併設していたのではないかと推測している。とにかく、そんな関係で、菩提寺は、代々、新宿・大久保の全龍寺である。

●私が、御子孫の松本誠先生にお会いしたのは、昭和53年頃であったが、その時の先生のお宅は、世田谷の奥沢で300坪の屋敷であった。全体が緑に覆われて、都会の中で、都会の喧騒から隔離されていた。幕末・明治・現在、の検証も、いずれはしなければならない課題である。

■■重嶺・80歳の短冊