忠房と有君さまと

●「勘定奉行石川左近将監忠房のプログ」があった。そこで、徳川家定正室となった、有姫のことを取り上げている。
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忠房と有君さまと .2014/7/29(火)
 井関隆子さまが残した『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』 深沢秋男氏著

有君さまのこと
有君さまは文政6年京に生まれ、6年後家定との縁組、天保2年9月に僅か9才で下向し江戸城御本丸住まいに。
天保12年11月12日5才齢下の家定と婚儀後、西ノ丸へ移り、この日から御廉中様と呼ばれました。
有君任子は前関白鷹司政煕の末娘で、関白鷹司政通の養女になり江戸へ下向したとなっているが
実は光格天皇の第6皇女と第7皇女の間に生まれた姫君だという、城内の噂があった、このことは
深沢秋男著『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』サブタイトルが井関隆子のエスプリ日記の中に、この噂話が書かれています。
隆子さまは、彼女の再婚先のご主人と御子息は共に御広敷のお役人でしたが、二人から多くの情報を日々得ていますので、有君の父親は誰かという話は城内でも密やかな噂はあったかと思われます。
忠房もこの話は聞き及んだいたかと安易に想像できます。
幼い年齢で遠く江戸まで連れて来られ、実の父親の事は公けにできない有君さまを哀れに思い、この絵巻物を書かせたのだと確信します。
御下向の道中、忠房は毎夜、有君さまのお宿にご機嫌伺いに上がっています、
幼い姫君様の様子が心配だったと思います。
歴博にある絵巻は写本です、原本は何処に?
久留島館長さん曰く、献上したのではないかということですが、果たしてどなたに献上されたのか?
有君様に献上か?
で、絵巻物の表紙を飾った見目麗しい織物は有君様から忠房が拝領した品の中の一部で作らせた表紙か?
しかし嘉永元年(1848年)6月10日、天然痘のため26歳という若さで死去、有君の一生は何だったのか?
有君は家定の将軍就任前に没したため、御台所とは称されていませんでした。
なお、家定は2番目の正室も26才で亡くし、3番目に嫁いできたのが、あの篤姫でした。
若い年齢で逝ってしまわれた有君さまは、
幕末の騒動に巻き込まれなかっただけでも幸せだったかもしれません。
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●このブログで「有君御方御下向御行列之図」が紹介されている。
勘定奉行石川左近将監忠房のプログ

■「有君御方御下向御行列之図」