光格天皇の皇女 と 徳川家定の正室

●「昭和天皇実録」の完成を知り、第119代、光格天皇 1771〜1840、のことを思い出した。私は、井関隆子の日記を読んでいて、妙な記述に出合った。光格天皇は、天保11年11月19日に他界されている。『井関隆子日記』の天保11年11月25日の条には、次の如く書かれている。

「廿五日 きのふけふ日影はれ、風しづか也。まことや去し十九日、仙洞の上かくれさせ給へりとて、物の音、屋造りなど止めさせ給へり。都には後の御わざどもいみじう、かきくれ惑ひ給ふ御方々多かめり。・・・ここは国遠かれば、さばかりの御ひびき、くはしき御事も聞えこざれど、右大将の君の御上とて、一とせ大城にわたらせ給へる、有姫と聞えさせ給ふは、鷹司殿の姫宮とは聞ゆれど、まことは此院の上の姫宮におはしましけるを養ひ奉りて、ここにくだし給へりとなん聞ゆれば、さらでもいみじう遠き海山を隔てて、覚束なう思ひわたらせ給ひけむを、いとど遙けき御別れに、いかばかり、おもほししづませ給へらむ。おしはかり奉も、中なかおろかにかしこうなむ。・・・」

徳川家定正室・有姫、鷹司任子・天親院は、鷹司政熙の子で、鷹司政通の養女となって、徳川家定に嫁いだ、というのが、歴史上の通説である。しかし、隆子は、有姫の実父は光格天皇であると言っている。『系図纂要』の光格天皇の条を見ると、

○文政5年、1822年 第6皇女・治宮 誕生

○文政7年、1824年 第7皇女・蓁子内親王 誕生

●有姫は、文政6年、1823年に生まれている。さて、歴史の真実はいずれであろうか。これが事実であるとすると、徳川家定は、何と天皇の娘を正室に迎えたことになる。当時の将軍家と天皇家の力関係も透けて見えてこないか。解明がまたれる。
光格天皇 ウィキペディア より