〈学童疎開〉 あの日から70年

東京新聞の4月15日朝刊の1面トップに特集「伝言 あの日から70年」が掲載され、第1回は「学童疎開」が取り上げられた。学童疎開、若い世代では、知らない人も多いだろうと思う。

学童疎開
第二次世界大戦末期の昭和19年(1944)から、戦争の災禍を避けるため都会にある国民学校初等科の児童を個人的、集団的に地方都市や農村へ移住させた処置。(日国、2版)
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 「元気で行ってまいります。帝都の守りをお願いいたします」。その年の八月二十五日夜、東京都荒川区の第一日暮里国民学校校庭に一人の児童の声が響いた。大勢の父母が見守る中、号令台の上であいさつに立ったのは当時六年生、十二歳の小林奎介(けいすけ)さん(82)=さいたま市。この日、学童集団疎開に向かう三年生から六年生計二百五十人のために出発式が開かれていた。
 「当時は空襲の本当の怖さを知らなかった。汽車に乗ることがうれしくてはしゃいでいた」
 上野駅を出た夜行列車が翌朝に着いたのは福島県熱海町(当時、現在の郡山市)。山あいに温泉宿がぽつんぽつんと立つ。空には低く垂れ込めた灰色の雲が広がっていた。出迎えたブラスバンドの演奏による熱烈な歓迎とは対照的に、不安な気持ちが膨らんだ。
 児童らは四軒の旅館に分散して宿泊した。長旅の疲れから物思いにふけったり、両親へ手紙を書き始めたり。六年生を班長に五〜八人ごとに分かれて部屋に入ると夜には親に会えない寂しさから下級生が泣き始めた。
 文部省(当時)のこの年九月時点のまとめで、学校単位の集団疎開をした児童は四十万人以上。個人的なつてを頼った事例などを含めれば体験者は倍近くに上る可能性もある。疎開先で慢性的な食料不足や不衛生的な環境、いじめに苦しんだ児童は多い。その傷は七十年たった今も胸に残る。
 小林さんの生活もこの日、一変した。
東京新聞
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●ここで、70年前の思い出を語る小林奎介氏は、妻の従兄弟である。妻はこの時、2歳であるから何も覚えていない。ただ、私は、身延の原尋常小学校の5年だったので、同じクラスの中に、5、6人の疎開してきた友達がいた。私の小学校の記録によれば、昭和19年8月、山梨県への学童集団疎開は3800名だったとある。「学童疎開資料センター」作成の9月時点では、9191名となっている。この年の10月には、神風特攻隊が実施され、翌20年8月、広島、長崎に原爆が投下されて、8月15日、終戦になったのである。
●小林奎介氏は、大学卒業後、会計事務所に勤務しながら、学童疎開の資料収集・研究を続け、現在は「学童疎開資料センター」の代表を務めてている。同センターには1000点余の貴重な資料が所蔵されているという。
東京新聞 4月15日朝刊

■小林奎介氏