『井関隆子日記』の活用

●最近は、『井関隆子日記』も、諸方面で利用されるようになった。著者の井関隆子も喜んでいると思う。昨日も「仁杉五郎左衛門研究」というサイトで『井関隆子日記』を引用しているのに気付いた。引用するにあたって、表記などを改めるのは、その目的によって仕方ないと思うが、引用のミスは、少ない方が良い。一読気付いたミスを指摘しておきたい。  
●印がミスの部分
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「仁杉五郎左衛門研究」  井関隆子の日記 

井関隆子(天明5年生まれ)は、天保11年(1840)から15年10月までの4年10か月にわたる日記の他、いくつかの作品を残している。
 息子(実際には先妻の子)の井関縫殿頭親経が江戸城の御広敷御用人となり、11代将軍家斉の正室・広大院(松の方)の係だった関係で、江戸城内の出来事がすぐ耳に入る立場にあり、日記には日常の出来事以外に、普通の市民では窺い知れない城内での出来事、人事異動などが書かれている。
 五郎左衛門の名こそ出ては来ないが、御救い米事件や、それに関連する奉行所内の刃傷事件にも触れ、筒井、矢部、鳥居の町奉行職の任免にまつわる話を伝えている。 特に矢部には好意的な記述が多く、伊勢桑名で餓死したくだりまで書きとめられている。

天保12年4月29日  幕府の人事異動について
昨日、さるべき司の人々、かれこれ召されて其職共かはれりとか。 さる中にてはさいはひ(幸)得たるあり、はたおとされたるあり。 楽しみ悲しみゆきかふ様、目の前にいちじるし。 (後略)
●さる中にてはさいはひ → さる中にはさいはひ  

5月3日  矢部駿河守が町奉行に任じられた事について
矢部左近将監と聞こゆるは、去年の冬、小普請支配てふ司に召され、此旅は町の司(町奉行)に移されぬ。 水戸中納言斉昭卿は、お国におはしけるが、此春ふりはへたる御使ありて、召上げられたる喜びとて、かれたる餉(かれい)を送られ、はた短冊に歌を書きてとらせ給へたりとぞ。 其の歌は
  鶯の 谷より出る 声するは また立かへる 春のしるしか
「この殿に親しうもあらぬ人なるに、かくとひ給へるは、思うところおはしなめり」
と、ある人語りぬ。
●此旅は → こたびは
●とらせ給へたりとぞ → とらせ給へりとぞ
●おはしなめり → おはしてなめり  

12月3日  筒井紀伊守の町奉行罷免について
(内藤岩五郎、後藤駿河守、吉松吉五郎などの左遷を記した後)筒井紀伊守はさりし頃、町の司より西の殿の御留守居になりぬ。 此人、町の司たりし時、其下司公(おおやけ)に納むべき黄金を、己が奢りにいみじう使ひたる、其事どもあらわはれ、此頃御糾しありなどといふはまことか。 (後略)

12月23日 矢部駿河守の町奉行罷免について
町の司、矢部駿河守と聞こゆる、母の失せたりしかば、其おもひにこもりしより、打はへ久しう引きこもりおりと聞こえしが、思し召しありとて司はなたれ、差扣へ仰せ付けられぬとぞ。 此人、もとより世のかいなでは、いたう変りて、其心雄々しく、いいささか私なく、公事のあやしう後めたき筋ども正さるるに付て、去りがたき節々申たてつるに、さては一ノ司よりはじめさはる人々いと多くて、中々にかうしづみぬることを、いと心苦しう世に言ひあへりとか。 此人、おのが思ふ筋正さば、事にあたらむこととかねて知つれど、さればとて其司として、世にへつらひてやむべき事ならずと、思ひとりたるなめりと、おしむ人多かりとなむ。 此司より御留守居にうつされたる筒井伊賀守のあづかりたる時のひがことなど、近頃ほころびたる、其事共によれりとか。 此矢部の某は今年うつされたる司也。 猶、人のいひ騒ぐ事あれど、不用なればとどめつ。
●引きこもりおりと → 引こもりをると 
●いいささか私なく → いささか私なく
●筒井伊賀守 → 筒井紀伊守 

12月28日  鳥居耀蔵町奉行任命について
町の司は、御目付久しう仕うまつれる鳥居耀蔵とか聞こゆる召れたりとぞ。 この外、彼是うつされたる人あめれど、不用なるはもらしつ。

天保13年3月23日  判決の翌々日
かの前町の司なりし矢部駿河守、ひとひ司召放たれ、さしこもりぬと聞こえしが、猶罪さりがたきなめり、昨日松平和之進と聞こゆる国の守へお御預になり、其家滅びたるとぞ。 其罪の条々おふせ給う書付を見るに、世にもともかく沙汰しつる如く、ひととせ(一歳)世の中いたう飢えたりし時、救い米あまた出けるを、此人、其折御勘定奉行たり。其時下司の者共、わたくしごと有て徳つきたるが、同じ輩(ともがら)のうちに恨み憤る者ありて、其後町の司になりし初め、役所にて恨みある某を切殺し、己もみずから失せたりと聞こえしが、それらのかうがえ正しう行き届かず、申しわけなど前後打ちあわず、其職に堪えずとて罪にあて給うよし也。 はた夫にかかづらいたる者ども罪に行はるる中に、命召さるる者もあり。 はた家継がすべき子は、松平内匠頭と聞こゆる、其末の子にて、いまだ若くて父のもとにおるをも、養親のとがにより、改易せられぬとぞ。 此人の妻は泉本某と聞こえて田安の殿に仕うまつれる娘也。 すべて此ゆかりにかかれる人皆つつしみおれり。 かの北村法印も従兄弟にて息子湖南は婿なれば、門さしこめおれりとぞ。 さまざま罪にあたる人のある中に、是は珍らかなりとて、世にいぶかしみ、ささやく事多かりとなむ。 はた筒井伊紀伊守も同じやうなる御咎なれど、是は司放たれ慎みおれりと聞こゆ。
●其家滅びたるとぞ → 其家亡びたりとぞ 
●救い米 → 御救い米
●正しう行き届かず → 正し行き届かず
●人のある中に → 人のあるが中に 

5月11日  矢部の桑名出立について
かの矢部の某は、主の守にともなわれて、伊勢の国におもむきぬとぞ。 其旅だつ時、詠めりし歌とて語るを聞けば、
  君をおもふ 心ばかりは かはらずよ かはりはてたる わが身なれども
まことにかくあかき心ならむには、いとあはれなる事なれど、人の心は親はらからだにはかられず、ましていかがは。
●5月11日 → 5月23日

8月7日  桑名における矢部の憤死について
矢部の某は、伊勢の桑名にて身まかりぬとて、見届けの御使たつと聞こゆ。 世に沙汰するを聞けば、此人近頃絶えて物言はず、はた物を露喰はで、わざとはかなくなりたりとか。 年は五十ばかりなれど、まだ若こうあたらしう見へしとか。 求めて死にけむほどの心地えもいひしらず、聞くだにいとおそろし。
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●私は、揚げ足とりをしている訳ではない。このような文章を書く井関隆子ではない。隆子の文章は、大学入試センター試験明治大学入試、京都大学入試にも堪える文章である。その作者に対して、杜撰な引用は申訳ないと思う。
■「仁杉五郎左衛門研究」のサイト