歌評会

●今日は、国分寺の大仙寺へ行ってきた。文禄4年(1595)、正善院日堂上人開山。最初は江戸八町堀に堂宇を構えたが、後、浅草八軒寺町に移り、昭和20年3月10日大空襲で焼失、昭和23年(1948)5月、現在地に移転・再建した。小平市上水南町2−11−20、日蓮宗。これは、小平市教育委員会の説明掲示板による。
●短歌雑誌『あかね』の若宮貞次先生のお別れ会があり、私も末席に参列させて頂いた。本殿において、読経、焼香があり、昼食後、客殿において、歌評会が行われた。若宮先生への追悼歌が61首プリントされて配布された。司会者によって、1首1首詠み上げられ、席順に2名が批評・感想を述べる。その後、作者が公表され、自詠への批評に対して感想を述べる。このようにして、全ての歌を批評・評価する。歌評会は、途中少し休憩して、3時間ほどで終った。
●私は、最初から最後まで拝聴したが、作者名を伏せての批評は、極めて厳しく、詳細な吟味が加えられた。私は、思わず、厳しいですね、と隣席の方に囁いたら、若宮先生なら、もっと厳しいですヨ、と申された。
●私は、日本文学研究会の演習を思い出した。重友毅先生主宰の研究会は、これも厳しかった。芭蕉連句の時など、1ヶ月準備して、会に臨んでも、先生に認められるような、解釈・見解は出せなかった。トウトウと意見を述べ終ると、先生は、「それでどうだね」と申される。私のアタマの中は空っぽだった。そんな修業が何年も何年も続いた。
●今日の、若宮先生の追悼歌会の歌評会を拝聴して、「あかね」の会は、先生亡き今後も、真摯な歌人によって、継続・成長してゆくだろうと思った。これは、先生への大きな御供養になるだろう。
●私は、久し振りに、研究会に参加したように、ぐったりと疲労して、帰宅した。若宮貞次先生、有り難うございます。
若宮貞次先生の墓

■先生の歌
三世代経て亡びたるふるさとの
  くらのまぼろし輝かに在り
           貞次 (印) 

法号「清教院法茜日貞居士」