辞書を引く

●私の小学生の頃は、戦前であり、子沢山の貧困家庭ということもあり、家には辞書らしいものは無く、漢字の読み書きは、全て、すぐ上の兄から教えて貰っていた。その兄は、毎日毎日、講談読切などの雑誌を読んでいて、それらの大衆小説は、全て振り仮名付きゆえ、あらゆる漢字の読みと意味を知っていた。この点に関してはクラスで一番だった。
●中学・高校と進み、辞書の有難みを覚えたが、特に感動するほどではなかった。大学に入り、平凡社の『世界大百科事典』にめぐり合って、これには感激した。とにかく、モノを考える前に、まず、この事典で確認してから進めた。
●これは後年、『井関隆子日記』の校注作業をしていた時の経験であるが、岩波書店新村出の『広辞苑』に出ている程度の語彙には注を付けない、という基準を設定した。この作業は完成までには5、6年はかかったと思うが、この間、『広辞苑』を机の上に置いて、毎日毎日引いた。3000ページ近い辞典であるが、慣れるに従って、実に軽くなっていった。まるで、小型のコンサイスを引くような感覚になった。しかも、「かい」「しん」などと予測して開くと、10ページ近辺にゆく、これには、吾ながら、慣れの恐ろしさに驚いた。また、せいぜい3000円位の辞典に、こんなに多くの事を教えてもらって良いのだろうか、とも感謝した。
諸橋轍次の『大漢和辞典』にしてもしかり、小学館の『日本国語大辞典』にしてもしかり、である。辞書を引く、ということは、このようなものだろう。
■『広辞苑』第6版 机上版  (老眼の現在は、これを使用)