川端康成の未発表原稿「勤王の神」

●今日の朝日新聞によると、川端康成が、昭和3年、29歳の時に投稿した小説の原稿が発見されたという。
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川端康成の未発表原稿「勤王の神」
 【織井優佳】川端康成(1899〜1972)が昭和3(1928)年、29歳で書いたと見られる未発表小説「勤王の神」の自筆原稿が見つかった。川端研究の専門家で、原稿を所蔵する鶴見大学の片山倫太郎教授が確認した。読み物誌に書き送ったが没になったらしく、後のノーベル賞作家が若いころは苦労していた様子がしのばれる。
 原稿は2010年に鶴見大学図書館が古書店から買った。400字詰め原稿用紙21枚にペン書き。筆跡が一致し、原稿用紙も昭和初期の数年間の既知作品と同じで、直筆に間違いないという。1枚目に受領印らしきものがあり、別の筆跡で「3年12月26日」などと記入されている。
 作品は江戸後期に皇室中心の日本のあり方を説いた実在の神道家・井上正鉄の生涯を描く。片山教授によると、1926年に矢橋三子雄という人物が書いた偉人伝「誠忠美談 忍ぶ面影」の1章を元にして書かれている。元の本より会話体が増え、古めかしい表現を改めているが、井上の遠島先が三宅島なのに伊豆大島とした誤記も踏襲していた。
 川端作品は、29年に大衆向け読み物誌「講談倶楽部」に同様の道徳的な物語計6作品が掲載され、同誌への発表は32年まで続く。受領印の日付から28年に書かれたと思われる「勤王の神」も、同誌に向けた原稿の可能性が高い。これらの作品はいずれも時代物や外国物語で、片山教授はうち3作品の典拠となったインド伝説の本なども見つけた。当時はそうした読み物の書き方は珍しくなかったという。
 片山教授は、「夫人の手記によれば、このころの川端家は質屋通いをするほど経済的に苦しかった。夏目漱石芥川龍之介も筆一本で食べていく自信がなく、新聞社と契約していた。『伊豆の踊子(おどりこ)』(26年)の後の時期だが、川端が苦労して小説の種を探し、生活の糧を得るために書いていた様子がわかる」と話している。       朝日新聞・デジタル より
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ノーベル賞作家も、このような苦しい生活を経て、創作を続けていたのである。作家と言えども、原稿料で生計をたてるのは大変である。自称小説家を名乗り、世に知られることも無く、この世を去った人々も数え切れないほどいるだろう。

●私が現役で、昭和女子大で近世文学を講義していたころ、川端康成の未発表小説が発見されたと、確か『新潮45』に掲載されたことがある。ところが、それは、横光利一の小説を川端が写したものだった。川端は横光の小説を書写して、文章の練習をしたのであろう。川端の自筆ではあるが、川端の作品ではない。発見者は、確か「世の終り」という仮題を付けて発表してしまった。私は、この時、芭蕉の時間にも、近世文学史の時間にも、井関隆子日記の時間にも、内容を変更して、この問題を取り上げたことがある。
●私の講義を聴いた、熱心な学生が、東大図書館へ行って、『新思潮』掲載の、その小説『碑文』の初出を複写してきてくれた。その田中さんは、結婚されて、今、北海道でドイツ文化史の研究をしている。
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■『新潮45
話題になった記事  1987年5月号で川端康成邸で見つかった原稿が、川端の初期未発表作品だったとして編集部で「世の終り」と仮題をつけて掲載。文学史上の発見と報じられる[10]。ところが同誌発売前にその13枚の短編小説は横光利一作品とほぼ同一であることが判明。誤報だった[11][12][13]。  【ウィキペディア
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川端康成の未発表原稿  朝日新聞・デジタル より