『下里知足日記』

●この度刊行された、森川 昭先生の『下里知足の文事の研究 第一部 日記篇』には『下里知足日記』が収録されている。この大部な日記を一瞥してみる。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

■寛文8年3月1日  29歳 
朔日 晴天 与々(組々)御年貢麦、村蔵より出ス。五郎右、太郎右、なごや行。但、御飯米之事、すて子死申事。半七ニ銀ノ金三両渡ス。宗旨帳判取ニ如意寺へ行。
■元禄7年1月元日  55歳
元禄七甲戌 我年の影恥しや日のはじめ  知足
■元禄12年1月元日  60歳
元禄拾二己卯 一のうらは六とて暖き初日の出  知足
■元禄17年4月13日  65歳
十三日 昨夜より雨降 下男三人田打ニ行。昨日伊右、浄心へ見廻。今日勘右衛門見廻。智伯事ノ公事ニ付。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●『下里知足日記』の、書きはじめと、絶筆の部分は、こんな具合である。55歳と60歳の元旦の句はこのように詠まれている。29歳から65歳までの日記であり、極めて実用的な内容である。ただし、記者が俳人ゆえに、時として発句や連句が記録され、また、芭蕉西鶴など、俳諧師文人との交流の様子が記録されている。さらに、この膨大な日記の原本の紙背文書が大量に発見されている。それらの文書には、森川先生の詳細な注記が付加されている。

●字数、およそ140万字という、この膨大な記録から、得られた、当時の俳壇の様子は紹介されているが、今後、さらに詳細に調査を重ねれば、多くの事が明らかになると推測される。それは、若い研究者に残された課題でもあろう。

●私は、この2日間、じっくりとではないにしても、この度の、御労作を拝読した。それは文事に限ったものではないが、当時の鳴海を中心にした文化の状況を、具体的に知ることができる。たくさんのタカラを包含した日記だと思う。森川先生の学問的熱情に畏敬の念を覚える。

■元禄17年4月13日 の条 本書の口絵写真 より