近藤忠義先生と私

●私が法政大学へ入った時、日本近世文学では、近藤忠義先生と重友毅先生がおられた。しかし、卒論での指導教授が重友先生だったので、近藤先生との接触は少なかった。もっとも、重友先生の卒論指導も2回のみだった。私は、余り指導教授の指導は頂かず、卒論を書き上げた。
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 ●卒論の選択
 文学部では卒論が重要だと考えたので、これには早くから取り組んだ。一年生の頃から二年生や三年生の講義を盗聴した。小田切秀雄先生の講義に触発されて、近代の自然主義文学の中村星湖に興味を持って、早稲田大学の図書館へ行って資料を集めたが、思うようには集まらなかった。西尾実先生の中世文芸史の講義を受けて、世阿弥道元にも魅力は感じたが、これは仏教思想が壁になった。近藤忠義先生の説経節の作品講読で『信田妻』や『説経しんとく丸』などを翻刻・校訂して読んで、庶民文芸という点で食指は動いたが、少々作品の魅力に欠けていた。重友毅先生の日本近世文学史の講義で、近世初期の仮名草子に興味をもって諸作品を読みはじめた。いくつかの作品を読んでいるうちに、『徳川文芸類聚』所収の『可笑記』に出会って、その、歯に衣着せぬ物言いと、痛烈な批判性に衝撃を受けた。それで、この作品に決定した。平安朝文学は、一年の頃に『源氏物語』を、池田亀鑑校注の朝日古典全書で全部読破していたし、秋山虔先生の講読は非常に魅力的で、卒業後も聴講させて頂いた程であったが、これを卒論に選択する意思は全く無かった。
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●後年、何かの集まりで、近藤先生にお会いした時、『可笑記評判』を出した深沢君だろう? あれは良い仕事です。頑張りなさい。と言って下さった。私は、自費出版の『可笑記評判』を近藤先生には差し上げていなかった。先生は、私のしている事に注意していて下さるのだな、ととても感激した思い出がある。

■『可笑記評判』 昭和45年12月25日、近世初期文芸研究会発行。限定122部、非売品。