日記文学としての『井関隆子日記』

京都大学・高等教育研究開発推進機構主催の、第三回国際学生シンポジウムで、ダイゴ・フルカワ氏が『井関隆子日記』に関して発表された。発表は英語で行われているようである。実体はよく解らないが、フルカワ氏は『井関隆子日記』を日記文学として研究すべきであると提言している。
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アブストラクト集The Study of the Izeki Takako Diary: Is It a Diary Litera-ture?
Daigo FurukawaThe Izeki Takako Diary, written in the Edo era, has been treated chiefly as historical documents, yet previous studies suggested that it should be classified as a diary literature. Generally speaking, however, the Izeki Takako Diary has not been accepted as a literature. In this study, we noted the requirements for a diary to be called a ‘diary literature’ and considered whether the Izeki Takako Diary meets those, proving that it should be regarded as a diary literature. This may lead to the development of studies of diary literature in the Edo era and may promote the division between a diary and a diary literature, which is beneficial for both literature scholars and historians.

江戸時代に書かれた『井関隆子日記』は主に歴史史料として研究がなされてきたが、先行研究によって日記文学としての価値もあることが示唆された。しかしながら一般には『井関隆子日記』が文学であるという主張はあまり受け入れられていない。本研究においては、日記が「文学」たりうるための条件を改めて整理し、『井関隆子日記』がその条件を満たすかどうかを検討した。それによって明らかになったのは、『井関隆子日記』は歴とした日記文学たりうるということである。この研究結果により、江戸時代の日記文学に関する研究がより活発化しうるであろう。また、文学研究者は日記文学を研究し、歴史家は日記を研究するのがよいという側面から、本研究を契機に、記録としての日記と日記文学との峻別が進むことが望ましい。
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●結構な御意見であり、このように若い人々に、井関隆子の日記が検討されることは、望ましいことである。この日記を世に送り出した私は、心から感謝している。ただし、「Izeki Takako」ではなく「Iseki Takako」が正しい。

京都大学・高等教育研究開発推進機構主催、第三回国際学生シンポジウム