宣長の『手枕』と秋成の「吉備津の釜」

●昨日は、研究会へ出席、発表の当番になっていたので、学生の頃に興味をもった、上田秋成の『雨月物語』の中の「吉備津の釜」と、本居宣長の『手枕』の関係について、改めて考え直して、発表した。秋成は、『ふみほうぐ』の中で、宣長の『手枕』に関して、手厳しい批判の言を発している。

●秋成は、伊勢の国学者、荒木田末偶から、宣長の著作を借りて、読んだり、良い内容のものは書写したりしている。この時も、『古事記伝』巻12、巻13、『馭戎慨言』と共に『手枕』を借りて読んでいる。これらを読んで、書写しているが、『手枕』だけは書写しないで返している。しかも、『手枕』に関しては、「田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」と批判している。秋成は、『手枕』に対して、何故、このように厳しい批判を加えているのであろうか、というのが、大学4年の時にいだいた、私の疑問であった。

●その後、この問題に関して、考えてみたが、次のような推測が出てきた。
宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そして、それは、全く『源氏物語』にスッポリ差し入れるものとして作られている。秋成は、「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そして、それは、「夕顔」の巻の現代化であった。

●さて、この推測を秋成が聞いたら、何と言うだろうか。私は、大学院へ進み、重友先生の下で上田秋成を研究していたとしたならば、彼の国学に関して考えようと思っていた。今は、過去の思い出に過ぎなくなってしまった。

吉備津神社

御釜祓いの神事