斎藤氏と田村先生の出会い

如儡子の研究資料を整理していたら、元酒田市史編纂室長の田村寛三先生の執筆された文章が出てきた。「酒田古町名物語り(1) 筑後町」昭和57年11月発行の『季刊珈琲街』に発表されたものである。文章は、次のように書き始められている。
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 数年前、元酒田工業高校校長の我妻氏が一人の巨漢をつれて私の家を訪ねてきた。巨漢は我妻氏が米沢工業高校時代の教え子で、長井市で斎藤金型製作所の社長をしている斎藤輝利(豪盛)氏である。年は40才位でもあろうか。1m90cm、100キロ以上の堂々たる体躯の持主である。
 きくと、斎藤輝利氏の先祖は最上氏時代、酒田(亀ケ崎城)城代だった斎藤筑後守広盛で、社運が安定してきたので、先祖の地である酒田を訪れたという。私は内心「なるほど、これはまさしく戦国武将の子孫であるわい」と舌を巻いた。そして斎藤筑後がすんでおったといわれる筑後町に案内し、ゆかりの上日枝神社に参拝したのだった。斎藤筑後は川北三奉行時代、同町の現斎藤英男医院のところへ屋敷を持っており、そこから筑後町という名前が起ったのである。
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●私が、斎藤豪盛氏にお会いしたのは昭和62年である。その後、酒田の調査を通して、田村寛三先生には大変なお世話になり、御指導を賜った。今、この文章を読むと、酒田の歴史の第一人者、田村先生の、斎藤筑後守の末裔に対するコメントが微笑ましい。その後、このお二人は、どのように交流し、今日に至ったか。
●田村先生は、酒田市史に関する膨大な御研究を遺され、平成23年1月2日御他界なされた。82歳であった。斎藤豪盛氏は会社の経営を御子息の康盛氏に譲られ、現在は会長である。思えば、私は、このお二人の御配慮で、『可笑記』の作者の調査を進めることが出来た。心から感謝している。

「酒田古町名物語り(1) 筑後町」全文→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

■斎藤金型製作所

■斎藤豪盛氏
 斎藤家墓所、第2次改葬の折