変体仮名・草書体・古典の校訂 思い出
●日本の古典・古文書等は、明治になって、西洋活字が導入されるまでは、大部分が変体仮名と草書体で記録されていた。古代・中世までは、書写本だから、当然、筆で墨を使って紙に書いていた。近世になって、木版印刷が開発された時、写本の複製というスタイルをとったため、江戸時代の本も、変体仮名・草書体という形で記録され、出版された。江戸時代には、中国から漢籍が伝わったため、漢字の明朝体の本もあるが、大部分は草書体・変体仮名というスタイルであった。
●私は、大学3年の時、卒論の仮名草子『可笑記』の版本を見て、初めて変体仮名・草書体の本に出合った。それまでは、専ら西洋活字の本を読んでいて、それが普通だと思っていた。しかし、仮名草子を研究するには、変体仮名・草書体の本が読めなければ、新しい分野は開拓できないだろうと、独学で版本・写本を読んだ。大学3年・4年の頃である。
■古典の校訂は研究か?
●十数年も前のことであるが、近代文学の研究者から質問された。古典を現在の活字に置き換えるのは研究ですか? ただ、変体仮名を活字体に変えるだけでしょう? 私は、何もコメントしなかった。この人は、この仕事を否定的に捉えていて、その裏付けをとろうとしていたのが分かったからである。
●また、ある若い研究者が、どこかの大学の先生から、古典の翻刻などしても業績としてカウントされないので、しない方がいいよ、と注意されたとも聞いた。文部科学省が研究業績を審査する時、そんな基準を持ち出している、とも仄聞した。私は、この人には、我々は業績を挙げるために、古典の校訂をしているのではないでしョ、古典を研究するためでしョ。と答えておいた。
●大学教員の場合、研究業績が問題になり、研究論文は何点、著書は何点、それを問題にして、採用・昇格・研究費の配分などに使う。研究者の書いた文章にも、様々なものがある。論文・解説・評論・資料紹介などなど。それらを研究業績として、どのような基準で評価するか。
●変体仮名を活字体に置き換えるのは、言ってみれば、職人の作業で、研究ではない、という考えもあるだろう。しかし、それは、校訂という崇高な仕事を経験した事の無い御仁の、極めて皮相的な意見に過ぎない、と私は思う。校訂という仕事は、実は、奥が深いのである。マックス・ウェーバーが、古典の一字の読み取りに、何時間も何日間も費やす、意志と持続力のない者は研究者になれない、と言っている事を思い起こす必要がある。漢字の字体、言語の素養、当時の時代背景、作者の特徴、などなど、底無しである。従って、若い時の校訂には、未熟の故のミスが多い。しかし、習熟してきた時には、老化現象も進む。そこから生ずるミスもある。これが、人間の限界であろう。だから、私は、超老人は、古典の本文校訂の作業はすべきでは無いと、密かに思っている。
■「書を校するは塵を掃うが如し」
●「書を校するは塵を掃うが如し」書物を校合する作業は、塵を掃いても完全に掃き尽くすことが出来ないのと同じように、何回校合しても、完全な本文にすることはむつかしい。出典は、中国、宋の沈括の『夢渓筆談』である。
「宗宜献、博学にして、喜びて異書を蔵す。皆手ずから校讎し、常に謂う。書を校するは塵を掃うが如し。一面掃えば一面生ず。故に一書有れば、毎(つね)に三四たび校するも、猶、脱謬有り。」
●書物を校訂して定着する作業は実にシンドイ仕事である。日本の古典の場合は、原本が、写本や版本である。それらは、変体仮名・草書体で書かれている。このままでは、明治以降の活字体に慣れている、現在の我々には読みづらい。そこで、変体仮名や草書体を活字体に置き換える作業が必要になる。この時に、目的によって、校訂基準が異なるので、さらにやっかいになる。
●私は、かつて、浅井了意の『可笑記評判』を校訂していて、ようやく、その作業が終わろうとした時に大変なアクシデンに見舞われた。全10巻、542丁、1084頁、総合計字数28万6千字、振り仮名を入れれば、その倍の字数になるだろう。パソコンによる原稿作成であるから、大変な仕事である。そんな時、PCのトラブルで、巻1〜巻4のデータ消失があった。来る日も来る日も、変体仮名とパソコンを往復する。シンドイ作業である。
●実は、この作品とは、私の研究人生の中で長い付き合いである。昭和45年に謄写版で一度出した。続いて、昭和52年に複製本として出した。次は平成6年に『仮名草子集成』に入れた。この時は、朝倉氏が原稿を作成したが、校正は私と2人である。そして、平成20年には『浅井了意全集』第3巻の本文作成をした。研究生活の最初と最終に、この作品に取り組んだことになる。1つの宿命とも言えるだろう。
●これだけ、関与しての本文作成ゆえ、もうミスは少ないだろう、そうでなければ、研究者としての資格が問われるだろう。しかし、「校書如掃塵」である。長い研究生活を振り返って、忸怩たるものがある。
■校訂と内容の享受
●私は、昭和53年から56年にかけて、『井関隆子日記』全3巻を勉誠社から刊行した。この日記の原本との出会いから校訂本完結までは9年間かかった。著者の筆跡は多少くせはあったが、見事な自筆写本であった。全体では64万字くらいであるが、私は、これを、全て読み取った。写本・版本などの変体仮名・草書体は、90%までは、誰でも読める。しかし、研究者ならば、最後の1%を読みきらなければならない。これは、至難のことである。
●原本の、素読み・下書き書写・清書・原稿と原本の引き合わせ・初校・再校・三校・念校、と続けて本にした。この間、私は、同じ本文を10回以上読んでいる。1回1回、読む規準・力点の置き所が異なる。1回1回、読む意識をリセットして読む必要がある。そのようにして世に送り出してはいるが、ミスがないか、不安でいっぱいなのである。ミスがあるのは、私の能力の限界だろう。研究者は、皆、このような不安を抱えながら、校訂の仕事をしているものと思う。
●『井関隆子日記』は、1999年の大学入試センター試験、2010年の明治大学入試、2011年の京都大学入試に、それぞれ出題された。幸いに、この3回とも、私の校訂ミスは無かった。校訂者は、いったん出版すると、そこまで責任を負う覚悟が必要になる、と私は考えている。
●校訂者は、このように、努力しているから、その本文を読み抜いているか、と言えば、そうとも言えない。この井関隆子の日記について言えば、新田孝子氏・ドナルド‐キーン氏・秋山虔氏・田中伸氏・江本裕氏、野口武彦氏、藤田覚氏、大口勇次郎氏、関民子氏、真下英信氏、まだまだ、たくさんいると思うが、これらの、校訂に関与していない研究者が、一読、その価値や魅力を読み取っておられるのである。
●校訂に当っては、このような、努力は必要になるが、故に、そのテキストの文化的、文学的な価値まで汲み取り、判断し切れたかと言えば、そうでもないのであろう。人間の能力には限界がある。それを補い合って、古典の良さを享受してきたのが、私達の歴史だと思っている。
●私は、現在、近世初期の仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の百人一首の注釈書『砕玉抄』の本文校訂を進めているが、近世初期の大啓蒙期にふさわしく、殆どの漢字に振仮名が付けられている。総字数は膨大なものであるが、振仮名の1字と言えども、著者の表記は疎かには出来ない。それが、古典の校訂である。
★(傀儡子の日記、2011年6月15日 より)