家慶正室・浄観院は、面長・細あご か?

●昨日の朝日新聞・夕刊に、上野、寛永寺徳川将軍家御裏方霊廟発掘調査に関する記事が出ていた。この調査の結果は、『東叡山寛永寺徳川将軍家御裏方霊廟』(全3巻、吉川弘文館発行、15万7500円)に収録されているが、私は未見である。新聞には、将軍家の正室・側室の頭蓋骨の特徴、埋葬状況の復元図が掲載されている。埋葬は寝棺ではなく、座った状態であったという。復元図は、13代将軍家定の正室、澄心院のものであるが、井関隆子が悲しんで見送った、12代将軍家慶の正室、浄観院もこように埋葬されたのであろう。

●徳川12代将軍家慶正室有栖川宮・喬子は、没して浄観院という。『徳川実紀』などでは、天保11年(1840)1月25日没、とされている。しかし、井関隆子は同年1月15日の条に、次のように記している。

「この頃、密かに聞くに、いとゆゆしきことあり。上(家慶)の御台所と聞えさせ給へるは、有栖川の宮の姫御子におはします。それかくれさせ給へりといふ事、もれ聞ゆ。例ならずおはしますなど、ほの聞えしかど、いと篤しうおはしますなども、聞えざりしに、俄に失させ給へるよし、いはむ方なくまがまがしき御事也。」

●隆子は、家慶正妻は、病がちだとは聞いていたが、特別重病だとは聞いていなかったのに、俄にお亡くなりなった、と15日に記している。この記録から推測すると、有栖川宮・喬子は1月15日以前に他界したというのが実際のことのようである。

●2月6日、浄観院の葬儀が行われた。その様子を隆子は、克明に記している。

「六日の日、風なく日晴れたり。今日、御葬(みはぶり)なりとて、いみじき御ひびき聞き奉るだにゆゆしきに、近うなれ仕うまつれる女房たち、いかにくれ惑ひ給ふらむ。・・・今はと帰らせ給はぬ御出たちの、御柩引き給へらむ女房たち、はた、御見送りせさせ給へらむ、あまたの御方々などの御心地、むせかへらせ給へらむ御泪には、白妙の袖も紅に染めかへし給ふべく、御車の綱手に従ひ、遠く引きわかれさせ給ふらむ。・・・梅林とかいへる御内どほりより出させ給ひて、平川てふ御門にて御輿すゑ奉り、上野より御迎への僧たち、待ちうけ、御経読み奉りて、東叡山にわたらせ給ふ。・・・上野の谷中とか聞ゆるわたりにをさめさせ奉れりと聞こゆ。・・・」

●隆子は、この葬儀の様子を詳細に叙している。このようにして埋葬された有栖川宮・喬子・浄観院の亡骸が、平成の世に発掘され、その骨格から生前の容貌も予想できるようになった。このことを隆子が知ったなら、どのような言葉を発して、その心の中を表出するだろうか。

朝日新聞 4月9日