文芸時評

朝日新聞文芸時評欄は斎藤美奈子氏の担当で、毎回、鋭く小気味よい文芸時評を連載していた。斎藤氏の時評は今回で終わりという。御苦労様でした。今回は、このような批評がある。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 この枠で今月もっとも読みでがあったのは、350枚の長編、柴崎友香「わたしがいなかった街で」だった。

 舞台は2010年。語り手は、大阪で育ち、東京で結婚して離婚した36歳の女性である。彼女には戦争のドキュメンタリーを見る趣味があり、頭の中には断片的な戦争や災害の記憶が去来する。引っ越し先の世田谷区をかつて襲った空襲。映像で体験したユーゴの内戦、湾岸戦争9・11イラク戦争。あるいは阪神・淡路大震災

 思索的な小説である。思索的すぎてやや理に落ちた感もあるものの、2010年の物語を2012年3月に読む意味は当然計算されている。

 〈どんな大きな事件も悲惨な戦争も、最初の衝撃は薄れ、慣れて、忘れられていく。また事件や戦争が起こったら、忘れていたことを忘れて、こんなことは経験したことがない衝撃だ、世界は変わってしまったと騒ぐけれど、いつのまにか戻っている〉

 この数カ月後、彼女は大きな地震津波を(おそらくはまた映像を通して)体験するはずなのだ。「その後」ではなく「その前」の物語。同時代の作品をオンタイムで読む小さなスリルを味わえる。

 こういう繊細な作品の対極にあるのが「無責任枠」。文芸誌には「なんでこれが載ってんの?」な作品もじつは少なくないのである。

 筒井康隆「三字熟語の奇」や、石原慎太郎「世の中おかしいよ」(いずれも文学界4月号)は「もはやご自由にやってくださって結構です」という、御大ゆえの無責任枠だから無視すると、もっかこの枠の雄ともいえるのが木下古栗である。「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」はタイトルだけがすばらしく、中身はバカバカしい(それでも木下作品の中ではまだしも内容のある)短編だ。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●私は、若い頃は、文芸誌や同人雑誌を読み、即座に、その作品の価値評価をする練習も続けてきたが、今は、古典に転向したので、『群像』『文学界』『新潮』『すばる』などは殆ど読まない。しかし、だからといって、今の若い人の作品に大したものは無い、とは思っていない。今は、もうろくして駄文で原稿料を取っているヤカラもいるが、真剣に、原稿用紙、パソコンに向かっている若い創作家もいるのである。人間とは、そのような存在なのだ。

斎藤美奈子氏の文芸時評