『源氏物語』 「夕顔」の巻

●今日、本屋へ回ったら、週刊朝日百科の「絵巻で楽しむ 源氏物語 夕顔」が目に付いた。秋山虔先生監修で、リレー連載は、ドナルド・キーン氏の執筆である。キーン氏が『源氏物語』に初めて出合ったのは、昭和15年(1940)で、18歳の、コロンビア大学の学生の時だったという。氏にとって、『源氏物語』は、日本文学への愛情の源泉となったと言われる。

●私は、大学1年の後期に、『源氏物語』を池田亀鑑校注の朝日古典全書で全巻読破した。最初は古文に手こずったけれど、次第に作品の世界に同化できるようになった。3年生の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修し、学年末のレポートに「夕顔」と『雨月物語』「吉備津の釜」の関係を採り上げた。それが、重友先生の耳に入り、原稿を見せるように言われた。当時、法政大学で開催されていた「秋成研究会」で発表しないか、という事だった。結果的にはボツになったが、私としては、忘れられない、学生時代の思い出である。

●今、ちょうど、重友毅先生の思い出を執筆中で、この古い原稿が出てきた。学生時代の、いかにも、勇ましい書きぶりで、幼いものであるが、冒頭部分を少し紹介してみる。現在、友人の田中氏は『芸文稿』に『源氏物語』鑑賞を連載中で、5回目になるが、詳細な論証を踏まえて、読み応えのあるものになっている。それに比べると、いかにも評論家ぶった私は恥ずかしい。【これは、大学3年の時に執筆した、そのままのものである。】
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 『源氏物語』「夕顔」の巻と『雨月物語』「吉備津の釜

  はじめに

 五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのである。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。

「人のけはひ、いとあさましく柔かにおほどきて、もの深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。……わがもてなし有様は、いとあてはかに児めかしくて、……白き袷薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたる事もなけれど、ほそやかにたをたをとして、物うち言ひたるけはひ、あな心苦し、とただいとらうたく見ゆ。……」

 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

  本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。……
もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
 秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻々馭戎慨言かへし奉る、……また手枕の巻もくはへて奉る。是は写しとどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高きから、御むすめの御ため、しうねき性をあらはして、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりしなど書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和五年(一七六八)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記伊勢物語源氏物語古今集太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽婢子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。
 語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和九年十二月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和二十四年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある……」(『紫式部の芸術を憶ふ』)
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。
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週刊朝日百科「絵巻で楽しむ 源氏物語 夕顔」