横山重先生の生き方

●今日で1月が終る。このところ、2つの校正に追われて、さいとう内科クリニックへ行くことも出来ない。1つは、横山重先生の思い出を記したもので、校正しながら、感激の涙がにじむ。
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可笑記をたくさん ごらんになられたこと、前田君からも、敬服と云って来ました。一つの本を徹底的に調べるやうな事は、従来ない事でした。山田忠雄氏の「下学集」に次いで貴兄の可笑記か。可笑記そのものも、人を得て大慶に思ひます。
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■只今、お手紙と、文学研究二十八号の抜刷りを拝見しました。パラパラと一見したのみですが、よく 御調べになりました。一本についての調査としては前代未聞と思ひます。かういふ調査をした人があるといふ事その事だけで、後人を益するところ多し。大兄としても、かういふやり方をやったその事だけで、むろんプラスでせうが、かういふ態度そのものが、今後 貴兄に必ずプラスしませう。よくやりとげました。十一月廿三日   484 横山 重
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今や 新規な仕事はない。誰が誠実な仕事をしたかといふ事だけが、眼目になってゐるでせう。これが、最初で、これが終局と思ふ。貴兄の 第一歩を期待します。一月十四日 横山 重
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 横山先生は、研究の根本に、〔誠実・真実性〕を置いておられる。「真理を求むる意志、自他を欺かざる心根。対人関係にありては言行態度と意志との一致せること」私は、以後、この横山先生のお言葉を常に行動の根底に置いて研究を続けてきた。
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●昭和四十七年三月十八日、横山先生宅を訪問。今回も長時間に亙って、貴重な御指導を賜った。その折、先生の新しい御論文「遠近道印について」(『日本天文研究会報文』第5巻第1号、神田茂喜寿記念論集、一九七一)を頂いた。二五頁の力作である。帰宅後、ゆっくり拝読したが、〔遠近道印〕という存在に対する、横山先生の尽きることの無い追尋の姿勢に圧倒された。
 また、この時、先生は、深沢よ、美文を書く必要は無い。事実をツブツブと書きなさい。事実を正確に書き残せば、それは役立つものとなる。とお教え下さった。私は、学生以来、いずれかと言うならば、評論風を好んだ。しかし、この時以来、文章を一変した。
 この日の昼食には、特製の鰻重を御馳走になった。鰻が二段になって入っていた。同行した妻も私も、生まれて初めての豪華な鰻重であった。長時間に亙って、御指導を賜る私の姿を、同席していた、先生の奥様も、私の妻も、一部始終を見ていたことになる。妻は、帰りのタクシーの中で、横山先生の奥様は美人ですね。先生は、学問に対して厳しいけれど、本当に純粋で、お優しい方ですね、と私に語った。私は、妻に横山先生を理解してもらえて、内心、幸せに思った。
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■私は当地へ来て満十一年。当地へ来てから、四月になると、再刊二十一、新刊九です。全部で三十冊。そして、印税もらへるのは今度の琉球(五百部、一割)一冊だけです。新刊九の中で、七冊は文部省助成出版です。無職三十一年で、全部「竹の子」で来た。 三月廿八日   横山 重
●頭の下がる、先生の生き方である。
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■昭和五十七年十二月
御真情のこもったお手紙ありがとうございました。
誠実といふこと、偽りの多い今の世では、認められることも少くて、怒りを覚えられることが多いことゝ存じます(横山の場合もそうだったと思ひます)が、まことに立派なことゝ存じます。どうぞ胸を張って雄々しくお過し下さいますようお願ひ申上げます。
……亮治君のお写真と、お墓参り下さいました折の写真、嬉しく拝見しました。写真箱の中から、生後三ヶ月とある、赤ちゃんの亮治君の写真が出て来ました。二枚の写真を置いて見て居ります。十二月三十一日         横山あい
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横山重先生 昭和55年10月8日 御他界 84歳8ヶ月