年始まわり

●毎年、教え子から年賀状をもらう。教え子には、こちらからは、年賀状を出さない。貰ったら、返事の賀状は必ず出す。毎年、成長するお子さんの写真入りで貰うと、とても可愛くて、返事を出すのも楽しい。そんな中の一人の今年の年賀状に、「私、時々、カメダ珈琲店に行きます」と言うのがあった。実は、このカメダ珈琲店は、本店は名古屋らしいが、私の家の近くにもある。私も、1、2度は行ってみたが、食事はパンだけしかなく、珈琲を飲みに行く気になれない。しかし、だからと言って、遊びに来なさい、一緒に珈琲飲もう、とも言えない。

●実は、私は、家に、教え子も、友達も、編集者も呼ばないことにしている。とにかく、家の中が散乱していて、人様にお出で頂くには、1日は掃除しなければならない。故に、いくら可愛い教え子でも、家に来てはもらえない。近所に、教え子が2人いるが、お2人には、1度だけ、家の中も書斎も見てもらった。後は、誰も入っては頂けない。

●そんな、私に比較して、江戸時代の旗本は、大変だったようである。私の研究している、鹿島則孝は、鹿島神宮の第66代・大宮司であったが、『桜斎随筆』という膨大な記録を残している。実は、この則孝は、3千石の旗本、筑紫孝門の三男坊であって、その才能を見込まれて、鹿島神宮・大宮司家の養子になったのである。3千石の旗本の正月は大変だった。則孝は、その様子を次のように記録している。

『桜斎随筆』(鹿島則孝の記録。巻4の1)

「毎年正月初には、年始の来客絶間無く、父君は日々諸家へ祝詞として、御出故、来客には母君兄君御面会被成。〔予も面会する事有り〕甚だ繁忙也。殊に母君は毎早朝より、髪結い入浴、粧ひ被成、七日迄は、地赤の服に白無垢重ね着用にて、客来れば、かいどりを着給ひ面会せられ、饗応には、冷酒燗酒、吸い物、取肴〔二種〕出す〔先年は雑煮も出しが、近年互に略す〕。刻限によりては昼飯も出す〔これは前日より頼みの申込書状来る〕。婢も皆衣服改め〔役柄に寄り惣模様、裾もやう等給分つ〕。又、毎朝、親類知己等へ、奥向より年始状差出す。夕刻には返書来る。日中には諸家より年始状来る〔直に返書〕。近親へは文のみならず、品物の贈答もあり。〔奉札とて、右筆の女、兼て認め置ども、万端母君差図被成候。右故、其多忙思ひ遣るべし。予など、たまたま歌かるた双六など初て遊はむとするほどに、忽ち客来の隣りにて、止むるを残惜く思ひたり。故に夜を更して遊事あり。〕
八日よりは略服にて、男は服紗小袖〔此日迄は熨斗目〕、女も模様に被成候。
十六日よりは平服に成るなり〔酒肴も出さず、茶菓子のみ出す也〕。
大体廿日頃迄客来あり。」 

●3千石の旗本の正月は、こんな調子で、武家の妻は、正月中、主人の代理として応対していた。生半可な女性では、武家の妻の役目は果たせなかったのである。主人がいなければ、妻、長男、次男、三男と、代役を務めていた。教え子も友人も出版社の方も、1歩も家に入ってもらえない、私など、ノンキなものである。

鹿島則孝の『桜斎随筆』 巻4の1

■『桜斎随筆』の原本  鹿島則良氏所蔵

■『桜斎随筆』の複製本 平成12年、本の友社発行