徳川家康 → 角倉了以・素庵 → 富士川

徳川家康は河川による運輸に関心を持って、京都の富豪、角倉了以・素庵に命じて、保津川富士川・天龍川などの開鑿・流通を行った。『徳川実紀』の慶長12年(1607)には、次のように記録されている。

「(家康は)河渠運輸の事にも御心を用ひられしと見えて。その頃京に住せし角倉了以光好。その子与市郎玄徳は。家代々富豪にして水利に熟せしよし聞し召およばれ。慶長十年春の頃光好に命じて。丹波の世木庄殿田村より。保津をへて大井河に至るまでの水路。岩石おほくして通船なり難ければ。光好父子に命じ新に水路を堀通さしめ。八月に至て成功し。近境大にその利をえたり。又十二年光好仰を奉はり駿河の富士河を堀ひろげ高瀬船を通じ。同国岩淵より甲州に運漕し。国民をして便利を得せしむ。」

「角倉与一光好(剃髪号了以)富士川の船路をひらき。駿州岩淵より甲府に至るまでの運漕を通づ。国人皆これを便なりとす。」

●家康は、幕府直轄地の甲斐の国の水運を整え、江戸への米の輸送などに利用した。明治時代になって、廻米輸送が無くなり、昭和3年(1928)富士身延鉄道(現在の、JR東海身延線)が開通して、水運は、その役割を終えた。しかし、波高島と身延の間は、観光として富士川下りが行われていた。

●その頃の、富士川下りのパンフレットには、「左岸では天空に聳える八木沢の絶壁が連なり、急流は身延裏山の麓を回って紆余曲折、スリルを満喫させつつ軽舟はさながら生あるものの如く身延まで流れ下る。」とある。

波高島から身延まで、所要時間は約1時間、料金は、1艘5人までで、2円50銭であった、という。パンフレットには、東京より下部・身延まで4時間半とあるる。現在の、東京からの交通アクセスは、

■電車 新宿→甲府(約100分)→鰍沢口(約25分)→塩の華(タクシー約5分)→乗船

富士身延鉄道時代のパンレット 峡陽文庫所蔵