齋藤筑後守の筆跡

酒田市史編纂室室長の田村寛三先生の論説「一条八幡神社にあった筑後文書」を初めて読んだ。平成元年(1989)年5月16日付『荘内日報』に発表されたものである。先生は、次のように書いておられる。

■「去年8月16日から20日までの5日間、国文学者の深沢秋男先生が来酒され、斎藤筑後関係の史料調査を綿密にされていった。・・・私は5日間、先生と行動を共にした。」

●私の、斎藤親盛・如儡子の酒田での調査は、昭和63年から開始された。その前に、如儡子終焉の地・福島二本松の調査は開始していた。野間光辰先生との約束を開始したのである。野間先生御在世中に、先生の「如儡子系伝攷」の徹底的検証を約束して、その実行に着手したのである。当時、私の「調査報告」を理解できない研究者も少なからずいた。田村先生は、次のようにも書いておられる。

■「先生の調査は誠に徹底したもので、およそ筑後のものは1点といえどもゆるがせにしなかった。私は学問の研究はこういうものかと頭のさがる思いをした。」

●歴史家の大先達が、このように、私の行動を見ていて下ったのかと、今更ながら、感謝している。私は、如儡子の伝記研究で、新しい方法を着想したのである。今から25年前である。

酒田市では、私の調査に市の車を、特別に出して下さった。5日間、田村先生と共に、亀ヶ崎城を中心にした、酒田一帯の調査をしたのである。その折、一条八幡神社にも伺い、斎藤筑後守の自筆文書を閲覧させて頂いた。田村先生も書いておられるが、最初、神社の方は、本物は保存も良くなく、閲覧は禁止されている、明治期に模写したものがあるので、それを見て下さい、と申される。実に立派な模写本であった。しかし、原物ではない。だが、しかし、原物を見せて欲しいとは、言えない。私は、その模写を綿密に調査した。田村先生は、続いて、次のように記しておられる。

■「そのうち神主さんが、どうした風の吹き廻しか、白い手袋をはめられ、おもむろに小さい箱を持ってこられ「これをどうぞ」という。」

●斎藤筑後守広盛の自筆文書を目にした瞬間である。この時の「神主さん」が、当時は禰宜であった、小野信幸氏であり、現在の宮司さんである。先日の記念碑建立式典にもお出で下さり、20数年振りに、お会いできた。

★田村先生の論説全文→http://www.ksskbg.com/nyorai/nyorai.html

■一条八幡神社所蔵の斎藤筑後守の自筆文書


■斎藤筑後守の年貢皆済状の署名

■元禄9年、酒田惣御町絵図、酒田市立図書館蔵
 右奥に座っておられるのが、田村先生