大啓蒙期の自注作品

●今日、如儡子・斎藤親盛の百人一首注釈の再校が終った。初校は2ヶ月かかったが、再校は1ヶ月でほぼ終った。この膨大な注釈書のトンネルを、非力な私は何回潜ったのであろうか。出版社は念校までだと言われる。すると、あと1回か。とにかく、校訂という仕事はシンドイ作業である。一旦出版されると、誤植は最後までついて回る。あー、コワッ!!!

●私は、学部を卒業した直後のころ、法政大学の島本昌一先生のゼミで、貞門俳諧を学んだ。最初に取り組んだのが、貞門俳諧の祖・松永貞徳の『貞徳百韻独吟自注』であった。万治2年(1659)刊。この著作に注を付けて出版したが、島本先生を中心に、学生と共に調査を重ねた。自分の著作に自分で注を付加する、何とも奇妙な本に思えた。しかし、私は、この作業で、近世初期の啓蒙の意味を知ることが出来た。仮名草子を研究する上で、貞門俳諧を学ぶ事は有効である、という私の判断に誤りは無かった。

●今回の、如儡子の『砕玉抄』も自注作品である。如儡子は、この著書の奥書で、

「つれづれと永き日くらし、おしまづきによって、墨頭の手中より落つるに、夢うち驚かし、愚か心の移りゆくにまかせて、この和歌集の、そのおもむきを綴り、しかうして、短き筆に書きけがらはし留めり。・・・」

と書き、これに、自分で次のような注を付けている。
○つれづれとは、徒然と書きて、つくづくとながめており、物さびしき体なり。
○ひくらしとは、終日の心。朝より晩までの事也。日くらしの く 文字、澄みて 読むべし。濁れば、虫のひぐらしの事になる也。
○おしまづきとは、机の事也。
○墨頭は、筆のこと。
○手中は、てのうち也。
○愚か心は、愚知の心也。
○短き筆とは、悪筆などいふ心。卑下のことば也。

●近世初期の、十分に文字も文章も読めない庶民のために、如儡子は大変な労力を費やして、この注釈書を執筆したのである。私が、この作者の探究に生涯を捧げたのも、この如儡子の生き方に共鳴し、感動したからである。

■『砕玉抄』奥書