批評の姿勢

●幕末の女性、井関隆子は、当時の国学者達の活動を記録して、厳しく批判している。当時(天保11年、1840年)は、古の文化、文学を学ぶ人が多く、江戸には多くの塾があり、古学を教えて、それを生業とする人々が多かった。それら塾の主の中には、真淵や宣長の著作の中の小さなミスを見付けて、針小棒大に宣伝して、世間に自分を売り込もうとするヤカラもいる。彼らは、自分が宣長の著作によって、知識を蓄えてきたた事も忘れているようである。

●もちろん、学問は、真実を明らかにするものであるから、批判がいけないと言っているのではない。学問研究においては、たとえ、恩師と言えども、その説に誤りがあるならば、これを訂正するのは宜しい。しかし、批判するには、批判の方法もあり、相手に対して、礼を失することの無いように留意すべきである。殊に、他界した人の説を批判する時は、相手は再批判できないのであるから、この点を十分に考えて批判すべきである、と言っている。至極、最もな意見である。

●私は、最近、ある書評紙に掲載された1文を読んで、非常に寂しい思いをした。昨年他界された文芸評論家の遺稿集の書評の内容がオカシイ。私が認知している事実とは異なる事が、まるで、そのようなヤリトリがあったかの如く述べられていた。しかし、相手は、もうこの世にいない。これを読んだ読者は、そんな事実があったんだ、と受け取るだろう。井関隆子は、そこを指摘しているのである。

●私も、学問である以上、納得できない説は見逃せなかった。実に多くの大先学を批判してきたものである。しかし、先方は、まだまだお若く、お元気で、磐石な地位を持っている方々である。何の遠慮も必要ではなかった。だが、今、それらの多くの方々は、他界された。私の批判に再批判の筆を執ることは出来ない。今後は、十分に注意して書かなくてはならない。隆子の言う通りである。

■『井関隆子日記』天保11年2月26日の条
★後から3行目
「たとへ師といはんからに、ひがことあらむをば後よりただしあらたむべきはさることなれど、さらんにはいひざまもあるべく、かつは中々にひが事どももあンめり、されどもすぎにし人は其こたへもせざれば、・・・」