尊敬すべき芸術家 草間彌生

朝日新聞の「仕事力」欄、7月3日に芸術家の草間彌生氏が登場し、「芸術は、命がけ」と題して、若い頃のことを回想している。また、今日、7月10日の2回目では、「私の主戦場ニューヨーク」と題して、芸術修業の頃の、貧窮の中での絵画制作の様子を語っている。渡米の経緯は、まず、アメリカ大使館へ行き、ジョージア・オキーフの住所をたずね、14枚の作品と共に「美術の道で生きていくすべを教えて欲しい」と手紙を出した。オキーフは、あたたかい返事をくれた。そこで、草間氏は、息苦しい日本からニューヨークへ移住したという。

●100万円を持って渡米して、ニューヨークで安いアトリエを借りて絵画制作に打ち込む。持参した金はたちまち使い果たし、極貧の生活が若い画家を襲う。窓ガラスが割れても修理できない、魚屋のくず箱から魚の頭を拾ってきて餓えをしのぎ、毛布1枚で寒さを凌ぎ、ひたすら描き続けた。見かねたオキーフが訪れて、ニューメキシコに来るようすすめてくれたが、競争が熾烈なニューヨークで闘い続けたと言って、自分の納得する芸術活動に打ち込んだ、という。

●草間氏は、1973年(昭和48年)帰国された。私が草間さんにお会いしたのは、確か1978年だったと思う、友人の松本君の依頼であった。要件は『マンハッタン自殺未遂常習犯』という小説を出したが、出版社は、その広告に草間さんの作品を使い、しかも、作品の1部分を切り取って使用した。これは著作権の侵害ではないか、という相談であった。私は、さすがに、アメリカ帰りの方らしく、厳し過ぎるとも思ったが、草間氏にとっては1枚の作品も、その画家そのものであり、これは、れっきとした人格権の侵害だと考えた。

●この事をきっかけにして、草間氏とは、その後も、いろいろ、お付き合いしてきたが、この度の、朝日新聞の回想を読んで、芸術に生涯を捧げた草間氏の壮絶な生き方に感動し、尊敬の念が深い。編目・葉脈から水玉へ、自分の世界を追い続ける芸術家に敬意を捧げる。

●余談であるが、私が最初にお会いした時、草間さんは、日本語よりも英語がうまく、日本語に不安があると、筆談を交えていた。また、その時に頂いた、小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』の序を、ハーバート・リード卿が書き、跋文を瀧口修造氏が書いていて、私は吃驚してたずねたら、ハーバート・リードは友達だと言っていた。私は、大学時代、ハーバート・リードの『芸術の意味』を谷川徹三先生に習っていた。素晴らしい著書である。みすず書房のその本は、瀧口修造氏が訳していて、谷川先生は、その訳に詳細な注釈を追加して下さった。私は、この谷川先生の講義で、芸術への眼を開かれた。今は、みんな、いい思い出である。


朝日新聞 7月3日、10日


著作権の相談に対応した謝礼に頂いた色紙の作品