庶民の墓 将軍の墓

●電話に出たら「公園墓地の御案内です。お墓の御準備はお済みでしょうか?」との事。私はお墓は造りません。富士川の河口(太平洋)か、最上川の河口(日本海)に続く海に散骨する予定です、と言って切った。

●先日のテレビで、震災に遭われた方々が、御自分のお墓に行って、倒れた墓石に手を合わせている姿に胸が詰まった。十代、二十代と続くお家もあろう、親が他界され、新しくつくったお墓もあると思う。この度の、M9の引き起こした津波の惨状を、御先祖様に報告していたのだろうと思う。それにしても、一般のお墓の墓石は、よく倒れるが、徳川将軍家の墓石は、どうして倒れないのであろうか。

●私は、昭和57年(1982)8月、日本文学研究会の文学散歩で、上野寛永寺徳川将軍家霊廟の見学をさせて頂いた。寛永寺執事長の浦井正明先生の詳細な御説明を拝聴して、感動した事が忘れられない。第五代将軍綱吉・常憲院の墓石は、非常に大きく、高い宝塔である。造営は宝永6年(1709)であるが、その後の震災にも、倒壊していない。浦井先生は、その著『もうひとつの徳川物語』(1983年11月12日、誠文堂新光社発行)で、次のように書いておられる。

「・・・直径約90センチ、厚さ約4.6センチもの円筒の部分が、なんと周囲の八角の唐銅や石で造られた基壇の中央を貫いて、基礎の石の部分にしっかりと固定されていたのである。・・・」

●驚くべき江戸時代の職人の技である。徳川初代・家康は、徳川家の永遠の継続を願って、宗家の外に、御三家・御三卿を配したが、15代で新しい時代と共に、その地位・権力は、歴史から姿を消した。しかし、歴代の墓所は、大震災にも倒壊することなく、今も健全である。

■第五代将軍綱吉・常憲院の宝塔。昭和57年(1982)8月28日撮影。ニコン

■浦井正明氏『もうひとつの徳川物語』 より