家慶夫人・浄観院の没日

●谷中・徳川家の浄観院の墓所の発掘調査の経過報告が『歴史読本』3月号に掲載されたので、ついでに、家慶の御台所・有栖川の宮の姫・喬子の没日について、井関隆子の伝えるところを紹介する。

●この、第12代将軍・家慶の御台所・喬子の没日に関しては、『徳川実紀天保11年1月24日の条に、
「御台所〔有栖川宮王女〕御不予により。紀伊家。松平加賀守はじめ。・・・まうのぼり御けしきうかがふ。」
とあるように、徳川家の正式の記録には、家慶の御台所・有栖川の宮の娘は、天保11年1月24日に没したとされていて、これまでの歴史でも、そのように記載されている。

●しかし、『井関隆子日記』では、1月15日の条に、次の如く記されている。
「此頃密に聞くに、いとゆゆしきことあり。上の御台所と聞えさせ給へるは、有栖川の宮の姫御子におはします。それかくれさせ給へりといふ事、もれ聞ゆ。例ならずおはしますなどほの聞えしかど、いと篤しうおはしますなども、聞えざりしに、俄に失させ給へるよし、いはむ方なくまがまがしき御事也。」

●『日記』の24日の条には、この頃、将軍家慶様は、一心に仏を拝んで御台所の供養しているとのことであるが、「今日、其御事、天の下にあまねくしらしめ給ふ。」
とある。どうやら、ここでも、歴史的事実の修正が必要のようである。

■『井関隆子日記』天保11年1月15日の条、4行目から